法 話
(33)「人と生まれて」A
−人権について考える−
数年前でしたか、中学校や高等学校の「校則」の見直しについて議論が盛んになったことがありました。ちょうど日本が子どもの権利条約を批准した頃だったかもしれません。その後どの学校も校則を改正して“規制緩和”が図られたように聞いておりますが、改正された文言を確認しておりませんので、実情は分かりません。
以前の校則では、生徒の服装・頭髪・持ち物から、生活行動に至るまでことこまかに規定され、生徒手帳にギッシリ書かれていました。例えば、通学時は制服を着用しなければなりません。制服のスカートの丈は膝下何センチ、ズボンの裾幅は何センチから何センチとか、下に着るシャツは白色に限るとか…。
頭髪についてもパーマネントは禁止。髪の長さは制服の襟のところまでとし、それより長い場合は三つ編みにするとか、前髪は眉毛の上までとか規制されていましたっけ。もう少し時代をさかのぼると、男子は頭髪を丸刈りにして必ず帽子をかぶること、などと定められていました。
そしてこうした「校則」に照らして「服装検査」や「所持品検査」が定期的に、あるいは抜き打ちで行われました。今思えば噴飯ものですが、当時はほとんどの学校で“真面目に”行われていました。
生徒を運動場に整列させ、物差しでスカートの丈の膝下を測ったりズボンの裾幅を測ったり、頭髪の検査をしたことを思い出します。パーマネントウエーブなのか天然のウエーブなのかもめたこともしばしば。入学時に生まれながらにしてウエーブがかかっているということを親が“申告”する学校もあったとか。
こうした監視・管理教育が堂々とまかり通っていた時代がありました。親も教師もこのような没個性的な均質化教育が、子どもを“不良化”や“非行化”から守る有効な手だてだと思いこんでいる時代でした。
さらに問題なのは、こうした教育が子どもを守り育てるためとはいいながら、学校や教師の対面を保つために実践されていたのではないかという点です。子どもの主体性より学校の秩序維持の方が優先されていたのではないでしょうか。権利主体としての子どもはどこへ行ってしまったのでしょう。
「権利主体」云々と大上段に振りかぶらなくても、もっともっと身近なところで「子どもの人権」が問われる場面が見受けられます。
かつて高度経済成長をめざす日本は、優秀な人材を確保しなければいけないということで、知識偏重の詰め込み教育が重用されました。加えて、第二次ベビーブームによる18歳人口の急増と進学率の急上昇から大学入試は超難関となり、受験勉強は激しさを増し詰め込み教育に一層の拍車がかかりました。
当たり前のようにして通ってきた道ですが、その過程において子どもの「人権」が無視されたケースはなかったでしょうか。「あなたの幸せのためなのだから…」という大義名分のもとに、子どもが主体的に自分の進路を考える暇も与えず、しゃにむに受験勉強を強制した家庭もあまたあったことでしょう。
「七・五・三教育」というフレーズも思い起こされます。学校での学習内容を理解している子どもたちの割合です。確か小学校で7割、中学校で5割、高等学校では3割が理解している(にすぎない)ということだったと思います。学校の授業についていけない、いわゆる「落ちこぼれ」がたくさんいるということの指摘です。
「落ちこぼれ」は学習の場で見捨てられるとともに、「発達の権利(教育への権利)」という人権も侵されているのです。そして残念ながらこうして疎外されたこどもたちの存在が「いじめ」「不登校」「校内暴力」「学級崩壊」といったキーワードに代表される問題行動の伏線としてあるのではないでしょうか。
こうした知識偏重の戦後教育を点検・反省して新しい21世紀の日本の教育がスタートしました。2003年度より「新指導要領が実施され、「学校週5日制」も同時に施行されることになりました。「主体的学習」と「ゆとり」が改革の大黒柱となっています。「没個性」の教育から「個性尊重」の教育へ、「監視・管理主義」教育から「子どもの主体性尊重」の教育への転換であります。
新しい教育においては、教育内容や教育方法について思い切った変革が求められるところですが、同時に権利主体としての子どもの“地位”の回復にも格別の配慮をいただきたいものです。新しい教育の場は「子どもの権利条約」の主旨のもと、人権教育を実践するには打ってつけの場であります。主体性を育成する教育と「人権」を守る教育が両々相まって、子どもたちが次世代を担う有能かつ円満な人間に育ってくれることを願うや切であります。
しかしながら、世界に目を転じると、日本の子どもの何十倍何百倍に及ぶ子どもたちが人権侵害を受けています。戦争や貧困により生存を脅かされ、孤児となって発達の権利を踏みにじられ、あるいは民族対立や宗教対立によって差別を受け虐待されている子どもたちは百万ないし千万単位で存在することでしょう。
今回はそうした点まで言及することができませんでした。また別の機会がありましたらふれてみたいと思います。合掌
《完:2003.12.1 住職・本田眞哉・記》