佛所遊履(ぶっしょゆり)
國邑丘聚(こくおうくじゅ)
國豊民安(こくぶみんあん)
兵戈無用(ひょうがむよう)
『仏説無量寿経』より
法 話
(35)続「年頭所感2004」
そうした一連の報道のなかで、私の心にひっかかっている疑問点があります。それは、小泉首相が自衛隊のイラク派遣基本計画を閣議決定した後の記者会見で、日本国憲法の前文「われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであって、…」を引用したことと「国益」との関係。
「日本は、自分の国のことだけを考えていてはいけない。戦禍を受けて困っているイラクに眼を向けて、積極的に人道復興支援しなければならない。」といいたかったのでしょう。その前段にある、恒久平和の崇高な理念を謳った部分に触れなかったのは残念ですが、他国を無視しない云々のくだりについては「至極ごもっとも」といわざるを得ません。
一方、石破茂防衛庁長官や安倍晋三自民党幹事長は「国益のため」自衛隊をイラクへ派遣するのだと述べています。しからば「国益」とは何ぞや。安倍幹事長曰く「日本は中東地域にエネルギーの90%を頼っている。この地域が平和で安定していなければ、わが国の繁栄はない」(2003.12.28付中日新聞)
小泉首相の言う「自国のことのみに専念して他国を無視してはならない」という憲法の理念と、「日本の国益=エネルギー確保」のためという安倍幹事長の説明とはどう整合するのでしょうか。
国民への説明として「国益のため」と言えば一見説得力があります。しかし、よくよく考えてみれば「国益のため」という発想は我利優先・国家エゴ以外の何ものでもありますまい。
もう一つ気になることは、安倍幹事長の「(自衛隊は)リスクを上回る国益のため汗を流しにいく。だから、彼らに敬意を払わなければいけない」という発言。
「リスク」とはいったい何なのでしょう。“戦況”が泥沼化して、暴力の連鎖から抜き差しならない状況に陥り、撤退できなくなって日本政府がダメージを受けるといったたぐいのリスクもありましょうが、この場合は、端的に言えば犠牲者が出るということをさすと思います。
となれば、リスクは個人が受けるということになります。「尊い犠牲の上に今の日本の繁栄がある」といったフレーズが思い出されます。「お国のために滅私奉公」などという言葉が脳裏をよぎります。歴史の歯車が60年前に向けて逆転し始めたと感じるのは私一人でしょうか。
太平洋戦争体験者の人口に占める割合が減少していくなか、戦争の悲惨さ残酷さがだんだん風化していきます。大変な時代になりました。戦争の悲惨さ残酷さを後の世代に声を大きくして伝えていかなければいけないと思うや切であります。
『仏説無量寿経』には次のように説かれています。
佛所遊履(ぶっしょゆり) 國邑丘聚(こくおうくじゅ) ─(中略)─
國豊民安(こくぶみんあん) 兵戈無用(ひょうがむよう)
その意味するところは
仏の教えが行き亘っているところでは
国々は豊に栄え
人々は安らかに生き
軍隊も武器も必要とすることがない(兵=軍隊 戈=武器)
わが真宗大谷派宗門は1987(昭和62)年、親鸞聖人の教えをねじ曲げて先の大戦に協力した罪責を懺悔し、真宗門徒としての日々の暮らしがそのまま平和運動であるような念仏者の生活実践をめざすことを宣言しました。
また、1995(平成7)年には宗議会の本会議で、すべての戦闘行為を否定し未然に防止する努力を惜しまない「不戦の誓い」を決議しました。しかしながら、その後国際社会では戦闘行為は減少するどころか増加し、大規模化し事態は深刻の度を増しています。
2001(平成13)年9月11日に「米国同時多発テロ」が発生し、アメリカは報復軍事行動を起こしました。そして後方支援として自衛隊を海外派遣することが問題となりましたが、宗門はその機関誌である『真宗』紙上でこうした行動について
(前略)血で血を洗う行為、乃至はそれに加担するものとして許されるものではない。私たちは、一切の武力行使に『NO』と言える立場を確保することに躊躇してはならない。
と主張しています。
しかし、今回の自衛隊派遣は、前回の「後方支援」より一歩も二歩も踏み込んで“戦地”に赴くという、比較にならないほど深刻な事態に日本が突き進むという危機を孕んでいます。国際協力の美名のもとに、日本はなしくずし的に兵戈を有し兵戈に頼る道を歩み始めるとともに、憲法9条も風前の灯火と言ったら過言でしょうか。
《2004.1.1住職 本田眞哉・記》