法 話

(4)「宗教と国家」

  ご縁があって6月にスペインを訪問する機会を得ました。日本から10,000q彼方のヨーロッパ。そのまた西南の果てに位置するスペイン。遠い異国に違いありませんが、最近はメディアの発達によって大変身近に感じられるようになってきました。テレビでは、サクラダ・ファミリア教会に代表されるガウディの世界がとりあげられ、居ながらにして彼の作品や人となりを知ることができます。また、インターネットでサーチすれば、昼夜を問わず自室から瞬時にスペインに関する情報や画像を入手することができます。

 しかし、やはり現地に足を運び大地を踏みしめ、陽光を浴び風を受け、そこに生きる人びとに直に接することは大事なことで、それによってより深くその国を理解することができ、親しみも沸いてきます。今回のスペイン旅行もその例外でなく、そうしたことを実感した次第。「百聞は一見に如かず」。言い古された諺ですが頭を下げざるを得ません。

 例えば、本筋論ではありませんが気温のこと。出発直前にインターネットで調べたマドリッド(Madrid)の気温は、最高気温32℃、最低気温は19℃となっていました。こりゃ暑くて大変だ! と半袖シャツを1枚追加。事実、街頭に設置された時計兼温度計のデジタル表示は何と47℃を示していました。もっともこれは直射日光下での計測値ですが、日陰でも37℃の数字が出ていましたのでまさに酷暑。そんなに暑ければ街に人は出ていないだろう、と思われるかもしれませんが、どうしてどうして、午後3時のマドリッドの中心部「三越」前あたりは人人人でいっぱい。

 直射日光が当たると、皮膚はピリピリと刺されるように痛い。確かに暑い。しかし、意外や意外、不快感はない。汗はほとんど出ません。ハンカチで汗を拭いている人はいない。湿度が低いのです。日本での体感温度と全く違います。帰国直後の32℃の気温のほうがはるかに応えました。一方、最低気温はといえば、朝は半袖では寒さを感じるほど。14℃〜15℃ではなかったでしょうか。とすると、1日の最高・最低の気温差は何と30℃以上もあるということになります。いずれにしても、現地に身を運んで体感しなければ本ものは解らないということです。

 さて、本筋論といえば、やはりヨーロッパでは宗教と歴史。もちろん、スペインについても宗教と歴史を抜きにしては語れません。その典型的な例が「メスキータ」(Mezquita)でしょう。メスキータは、スペイン南部アンダルシア地方の古都コルドバ(Cordoba:人口30万人)にあります。メスキータは、メッカにある世界最大のカーバ回教寺院に次ぐ規模の回教寺院(モスク)。コルドバ・カリフ王朝の絶頂期(8世紀)に最初の建築がおこなわれ、以後数百年にわたって増・改築が繰り返された壮大な建造物です。

 「免罪の門」(Puerta del Perdon)から入ると、そこは「オレンジの中庭」(Patio de los Naranjos) 。パティオには数十本のオレンジの木と糸杉や椰子が植えられ、10世紀の面影を残す井戸のある佇まい。回教徒はまずここで体を清め、今はふさがれている19ヶ所のアーチ型の入り口からモスクへ入ったといわれます。

 因みに、パティオ(Patio)というのは、住宅などに取り入れられているスペインの建築様式で「中庭」のこと。噴水や植木があり、床はタイル敷きというのが一般的なスタイル。わが東浦町内にある西部中学校にもパティオがあります。床がタイル敷きになっていたかどうか定かではありませんが、中庭入り口のコンクリート製アーチに「PATIO」の彫り文字があります。学校全体のイメージがスペイン風ということからそれを象徴して造られたのかも。

 「シュロの門」(Puerta de las Palmas)からモスク内へ入ると、その数850本といわれる大理石の柱の林立にたまげます。この入ってすぐの部分がメスキータで一番古く、カリフ王朝のアブデラマン1世(756〜788)が建立。そして奥へ進むとアブデラマン2世(821〜852)が増築した部分に至ります。さらに奥へ進んで突き当たりになる部分はアルカハム2世(961〜976)が増築。この突き当たりには、聖地メッカの方向を指さすくぼみ「ミーラブ」がしつらえられています。偶像崇拝を認めないイスラム教では、像・祭壇はなくその代わりといえる?ものがミーラブで、回教寺院には必ず置かれています。

 偶像崇拝を否定するイスラム教義の象徴的な例が、先般のタリバンによるアフガニスタンはバーミアン石窟大仏の爆破事件。数年前訪れたシルクロードのキジル千仏洞などでも、そうした仏像破壊の状況を目の当たりにしました。洞窟内の立体像はもちろん、壁面や天井一面に描かれた“千仏”の顔面もことごとく削り取られていましたっけ。

 さて、3期にわたって建造されたメスキータですが、さらに増築が行われました。ミーラブを正面に見て左側に、面積にして全体の約3分の1を占める大幅な増築。10世紀末のアルマンソール王時代のことですが、カリフ王朝も衰退期に入ったためか前3期に比べて造形的にも見劣りし、工事の手抜きも。とはいえ、ここまでは一貫して回教寺院として増・改築が行われ、180m×130m=23,400u、25,000人収容の超大モスクが出現したのです。

 ところがです。そのあと、とてつもない増・改築が企画されたのです。何と、この広大なモスクのど真ん中にキリスト教のカテドラルを建てようというのです。改築工事は1523年に着工され、240年の歳月をかけて完成しました。したがって、このカテドラルの建築様式はゴシック、ルネサンス、バロックの三様式が時代の流れの中で取り入れられ混在しています。

 改築に当たっては賛否両論がありましたが、時の王カルロス5世の裁定によって着工の運びとなったとのこと。ところが、工事現場を見たそのカルロス5世でさえ「お前たちは世界のどこへ行ってもあるようなものを造るために、どこにもないものを壊した」と嘆いたという、いわく付きの改築工事だったようです。回教寺院のど真ん中に、しかも床続きにキリスト教会が共存するという構造は何とも珍妙で、カルロス5世の嘆きを逆手にとるわけではありませんが、まさに世界中で「どこにもないもの」を造ったということでしょう。

 パティオを挟んで向かい側に立つ塔も、回教・キリスト教混在の形。パンフレットには「MINARET」と書かれているように、もとは回教寺院のミナレット(尖塔)。トルコあたりではペンシル型の細い円筒形が多いのですが、このミナレットは太い四角形。ご存じのように、イスラム圏で泊まると、早朝にこのミナレットから流れるコーランの声で目が覚めます。このミナレットは屋上に四角形と円形の塔が16世紀〜17世紀に継ぎ足され、キリスト教の鐘楼に変身。継ぎ足された部分にはいくつかの鐘が釣り下げられ、コーランの声の代わりに鐘の音が響いていました。これまた驚きでした。

 以上いずれも宗教家の端くれを自認する私にとっては大変ショッキングな“一見”でした。歴史の流れと軌を一にする宗教転変の中、その節目節目ではきっと血も流れたことでしょう。このアンダルシアのコルドバ地区だけをとってみても、紀元前後数世紀に亘りローマ化が進み、4世紀にはキリスト教化が完成したといわれています。ところが、711年にイスラム教を奉ずるムーア人がジブラルタルから侵入。以後1031年のカリフ王国の崩壊までイスラム教支配が続きました。

 一方、スペイン全土では、すでに9世紀にイスラム教支配に対するスペイン民族のキリスト教国土回復運動が始まっていました。そして1479年群雄割拠していたキリスト教諸国が一つになってスペイン統一国家が成立。1492年のグラナダの征服を最後にイスラムの勢力が駆逐されといわれます(小学館・日本百科大事典)。マドリッドのプラド美術館で観たヴェラスケスの『ブレダの開城』は、キリスト教徒がその国土を奪還した様子を描いた307p×367pの大作。イスラム教徒がキリスト教徒に城の鍵を手渡している一こま。

 因みに、現在のスペインの宗教事情はといえば、「大部分がキリスト教徒、ローマン・カトリックが主」(www.spain-japan.com)とのこと。スペインの歴史から見れば当然のことでしょう。当然のことでありましょうが、宗教がらみの征服・被征服が繰り返された中での民衆の心情に思いをいたすとき、私の心はいたみます。「宗教裁判」云々の言葉も見受けられるように、国家権力による宗教統一があったことは明らかだと思いますが、そうしたあり方はどうも私の宗教観にはなじみません。

 では、わが宗祖親鸞聖人の場合はどうだったでしょうか。聖人のライフワークである『教行信証』の後序には、
    竊(ひそかに)(おもん)みれば、聖道(しょうどう)の諸教は行証久しく
   廃れ、浄土の真宗は証道いま盛りなり。然るに諸寺の釈門、教に昏
   
(くら)くして真仮の門戸を知らず、洛都の儒林(じゅりん)、行に惑うて
   邪正の道路を弁うることなし。ここをもって興福寺の学徒、太上天
   皇
諱尊成(いみなたかなり)、今上諱為仁(いみなためひと)聖暦(せいれき)・承元
   丁
(ひのと)卯の歳、仲春上旬の候に奏達す。主上臣下(しゅじょうしんか)
   法に背き義に違し、忿
(いかり)を成し怨(うらみ)を結ぶ。
    これに因って、真宗興隆の大祖源空法師
(げんくうほっし)、ならびに
   門徒数輩
(すはい)、罪科を考えず、猥(みだ)りがわしく死罪に坐(つみ)
   す。あるいは僧儀を改めて姓名
(しょうみょう)を賜うて、遠流(おんる)
   処す。予はその一
(ひとり)なり。
(後略)

 【大意】ひそかに考えてみると、聖道自力
(しょうどうじりき)の教えはもうすでに廃れ、浄土の真宗はいま盛んである。であるのに、権威を誇る仏教界は本当の仏の教えを知らず、京都の知識階級は正しい仏道の行が解らない。このようなことだから、興福寺の学僧たちが承元元年2月上旬後鳥羽上皇および土御門天皇に念仏禁止を訴えた。天皇も臣下も法に背き正義に違い、忿りをつのらせ怨みにとりつかれている。
 これによって、真宗を興隆されたわれらの祖法然
(ほうねん)上人ならびに門徒数人を罪科も考えず死罪にしたり、僧侶の資格を奪って俗名をつけて遠国に流罪(るざい)とした。私はその一人である。 (後略)

 端的に言えば、国家権力によって本願念仏の教えが弾圧され、信教の自由が奪われたのです。なぜかといえば、本願念仏の教えは旧仏教界と為政者にとって都合が悪かったのです。宗教とは、本当に自分が助かる道を主体的に選び取って信じる帰依処なのです。信じることも、信じないことも国から強制されるものではありません。ましてや、特定の宗教団体が国家権力を握って他の宗教を弾圧し、宗教で国家統一をするなんてことは断じて許してはならない。スペインを旅するなか、そんな思いが私の脳裡を去来しました。
    合掌

2001.6.27.本田眞哉・記】

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