法 話

(48)モノとカネと心と伝統

財布を落として

騒がぬものはない

ところが

自分が迷子になっているのに

騒がないのが

人間である

─詠み人£mらず


 
 中部国際空港開港日(2月17日)に海外へ赴く機会を得ました。行き先はインドネシア。折角の機会ですので、私たち知多シニアライオンズクラブのメンバーは、バリ島のSURYA HOST LIONS CLUB を通じて、TSUNAMI(津波)被害者に救援金・品を贈ることをプログラムに加えて出かけることにしました。

 朝7時半ごろ空港に到着。1階から3階の出発ロビーまではスロープ式のエスカレーター。スーツケースを携えての移動にも至極便利。いわゆるユニバーサル・デザインが生きている感じ。ターミナルビルは、世界的に今流行りの全面ガラス張り。明るい。

 真新しいビル内をキョロキョロ見ながら集合地点までバゲッジをゴロゴロ推して行く。まずはチェック・インかと思いきや、9時55分発ガルーダ・インドネシア航空GA889便デンパサール行きは、エンジン・トラブルのため8時間遅れとのこと。ということは、出発は午後6時という勘定。聞けば、名古屋で折り返すGA888便の飛行機がエンジンに鳥を吸い込んで使用不能となり、代替え機材を調達するのに時間がかかるためとのこと。

参った。さあどうする? どうするったってしょうがない、新しい空港内を見学・散策するほかない。早朝はそれほど混雑していなかった空港内も時間が経つにつれ人の波が急激に増加。それにしてもプレスの多いこと。テレビカメラだけでも100台は超えていたでしょう。

 4階のイベントプラザではNHKが催し物を生中継。ものすごい人垣に阻まれて、中で何をやっているか分からない状況。スカイデッキでは寒風吹きすさぶ中、出発1番機のテイク・オフを生中継しようと、テレビ各社はカメラの放列。出発ロビーの片隅やインフォーメーション・センター周辺では、旅行者や参観者にマイクを向けてインタビュー。

 そうした中、2時半ごろでしたか見学・散策にも飽きてプロムナードのベンチに掛けているところへ、朝会った中日新聞大府通信局の松本芳孝局長がやってきました。「あレッ?」という顔つきで近づいてきて、「まだいるんですか?」。実はこうこう然々とガルーダ・インドネシア航空から貰った文書も見せながら説明。ところが、帰国後開港翌日の朝刊にこのインタビュー記事が載ったことが分かり赤面の至り。

 GA889便エアバスA300は定刻18時に中部国際空港をテイク・オフ。デンパサールのン・ラライ空港には現地時間の午前零時、日本時間午前1時にランディング。やれやれ。インドネシアへは十数回行っていますがこんなことは初めて。最初に訪れたのは1976年、今から29年前。今回10年ぶりに入国して人も物も、その変容ぶりに驚かされました。

 初めてインドネシアの地に足を踏み入れた時には大変なカルチャ・ショックを受けました。同じ地球上にこんな異文化の世界があるのかと感動そのものでした。超簡易舗装の道路を自転車、バイク、ベチャ(輪タク)が、牛車も交えて渾然一体になって走って?いたのが印象的でした。信号はほとんどなく、自動車もまれに見るほど素朴な景観でした。

 夜ともなれば街灯もなく、暗い道の両側の並木に塗られた白いペンキが道路のガイドラインの役目を果たしていました。一般の家庭には電灯もなく、ランプの灯火がほのかに家の存在を示していましたっけ。

 今回はオドロキでしたね。高速道路とまではいかないまでも、片側二車線の立派なバイパス道路を車が列を成して走り、時には渋滞も。ベチャは全くといっていいほど姿を消し、自転車も減ってバイクの増えたこと。観光バスもガタガタ・オンボロバスからベンツのエア・コン付きに変わっていました。素朴な街は、けばけばしい喧噪の街と化していました。

 ボロブドゥールやプランバナン遺跡の周辺も広大な駐車場を備えた巨大な公園が整備され、昔の面影は全くありません。観光産業の振興とはいえ、何か殺伐な雰囲気を感じたのは私ひとりではありますまい。「シェンエン」「シェンエン」の土産物売りの子どもたちの表情も以前の人なつっこさは消え、何が何でも売りつけようというしつっこさだけが目立ちました。

 かつては、客がホテルに到着すると歓迎のガムラン音楽が奏でられていました。プンドポのレストランでは、ディナーの時にガムラン音楽や民族衣装をまとったダンスのアトラクションがあったものですが、今回はそういう光景を目にすることはありませんでした。知り合いのプリアタン村のガムラン演奏団のオーナーから聞いた話では、そうした需要が激減したとのこと。またパック・ツアーの中のダンスやガムラン音楽の出演も少なくなってきているそうです。

例のバリ島でのテロ事件直後には観光客はゼロに近い状況だったそうです。今はかなり回復しているようですが往年の賑わいはなく、勢いホテルも観光業者も経費節減を図っているのでしょう。

 インドネシアの今は経済性重視か合理化か、はたまた近代化か利便性追求か、いずれにしても素朴さと暖かさと潤いがなくなりつつあることをひしひしと感じ、残念に思っています。観光客が減少した時にこそ、観光客に対してインドネシアらしい素朴さと暖かみのあるサービスを提供して貰いたいものです。

ひるがえって、出発前から議論を呼んでいた「南セントレア市」の話。知多半島の南端の南知多町と美浜町の合併後の市の名前を、法定合併協議会が「南セントレア市」と決定。が、内外からブーイングが殺到したため法定協議会はこの決定を白紙に戻し、新たにアンケートを実施して最多の市名を採用すると発表。

そして2月27日に合併の是非を問う住民投票と同時に新市名の選択アンケートを実施。ところが、結果は合併に反対する票が両町とも圧倒的多数となり、合併そのものがご破算に。もちろん、あれほど騒がれた「南セントレア市」名問題は雲散霧消してしまいました。

合併特例法のニンジンにつられて、協議会が住民の意向を無視してあせったツケが回ってきたといえましょうか。合併特例法の期限(05年3月末)内に話をまとめて申請すれば、合併特例債など自治体の財源確保ができるメリットがあるというのです。

 しかし、その財政最優先のために合併を急ぎ、由緒ある地名を無視し住民の意向も軽視して拙速に走った結果、すべてが水泡に。でも、よかったじゃないですか。地域の歴史も由緒も無視して、財政最優先で強引に合併してその土地の風土と乖離したカタカナ市名を付けて新市が発足したとしても、住民の後味は悪く郷土愛のパワーは細るばかりでしょう。

 私が感じ取ったインドネシアの現状と両町合併後の新市名の問題は似て非なるもののようですが、私にはいずれも歴史・由緒・伝統無視、経済性・合理性最優先の問題を孕んでいると思います。そういった点からすれば共通する問題だと思います。カウントできるカネ・モノが優先され、カウントできない自然・心・ぬくもりが置き去りにされているのではないでしょうか。合掌
《2005.3.2 住職 本田眞哉・記》



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