法 話
(50)「自然の叡智」
叡智(えいち)のともしび高くかかげ
時代(ときよ)をつらぬく真理(みち)を求めて
こころもゆたにやまず進まば
文化の花は 咲きてにおわむ
─『東浦中学校校歌』─
久松潜一作詞・1949年制定
愛知万博、愛・地球博が開幕して1か月余が過ぎました。開幕当初は参観者の出足が鈍く予想数を下回り心配されましたが、大型連休前から入場者が徐々に増えてきたようです。私は、内覧会の招待券をいただきながら、急用ができて行けなくなりチャンスを逸しました。日程調整をして近々出かけたいと思っております。
体験者からお聞きしたところでは、大方の皆さんから、良かった、素晴らしかった、楽しかったという言葉が返ってきました。ただ、ためになった、得るところがあったとか、感激したとかいう感想はあまり聞かれませんでした。どうしたわけでしょう。
展示は、ラフにいって大型館のディジタル・ヴァーチャル方式と、小型のアナログ体験方式とあるとのことですが、どうもヴァーチャル方式が強調されて報道されているようです。しかし、小型体験型の中には空いている上に意外と見応えのあるパビリオンがあるとか。その辺の予備知識を仕込んで私自身じっくり見学して確かめてみたいと思っています。
ところで、愛知万博のテーマは「自然の叡智」。サブ・テーマは「宇宙、生命と情報」「人生の“わざ”と智恵」「循環型社会」。
「叡智」とはどんな意味を持っているのか、「英知」とどこが違うのか、疑問に思って調べてみました。『広辞苑』によれば「叡智」とは、「深遠な道理をさとりうるすぐれた才知」とあります。一方、「英知」の方には「すぐれた知恵」と記されています。なるほど。おぼろげながら「叡智」と「英知」の違いが分かるような気がします。
「英知」は人間の頭で考えた、いわゆる知識を基にした知恵。科学技術や医学技術の進歩によって、豊かで便利な文明社会が実現し、私たちはその恩恵を受けていますが、この知恵のおかげ。しかし、こうした文明社会の発展とは裏腹に、負の影ももたらされました。それは、近代産業の発展にともなう乱開発のために地球上の自然が破壊され、大気が汚染され、排ガスによって地球の温暖化が急速に進んだという事態です。
地球上各国の努力にも拘わらず、地球環境は急速に悪化しつつあります。このまま放置すれば地球そのものが死んでしまうともいわれています。行け行けドンドンと産業・経済発展を推し進めてきた人間も、20世紀末になってようやくそのツケである影の部分に気がつき始め、「自然との共生」の声が聞かれるようになりました。
地球環境の悪化を防ぐ「京都議定書」もようやく発効したものの、各国の利害得失が絡みあって実効があがるかどうか危惧されています。こうしたことも含めて、やはり「英知」は「人知」。人間の頭で考えた「英知」はあくまでも「人知」、限界があるようです。
そこで求められるのが「叡智」。「人知」を超えた、「深遠な道理をさとりうる」「叡智」。
災害にあった場合など、「自然の力には勝てない」「自然は人間の知恵を超えている」といいながら、時が経てば人間の都合のよいように改造したり、自然の力を侮ったりする「人知」。
「地球にやさしい」などというコピーをよく見聞しますが、これほど人間の傲慢さを表す言葉は他にないと思います。たかが人間が地球に対して優しくしてあげますよ、なんておこがましい話。これこそ、まさに「人知」による発想そのものでしょう。
それに対して、「叡智」は「人知」を超えた大自然の叡智、まさに大宇宙の真理(道理)を導き出す素晴らしい知恵なのでしょう。「自然の叡智」の前では、人間の考えた「英知」など全く頭が上がらない、ただひれ伏すばかりです。自然の叡智に学ぶほかありません。
そういった意味でも、21世紀最初の国際博覧会が「自然の叡智」をテーマに開催されることは、誠に時宜を得た意義深いことだと思います。20世紀は戦争と科学技術が急進するとともに、地球環境の悪化が急速に進んだ時代でした。21世紀は自然の叡智に耳を傾け、自然に対して謙虚な姿勢で生きていきたいものです。合掌
《2005.5.1 住職 本田眞哉・記》