法 話

(52)「これでいいのか

疑は自我を


見ざるがために生じ


信は自己を見ることによって


得られる

─詠み人知らず

 梅雨に入り重苦しい空模様ですが、わが宗門の雲行きも何となく重苦しく感じられるのは私ひとりではありますまい。

 宗務当局の打ち出す教学・教化の方向性や施策、地方での教化態勢や教化方策には、僧侶・門徒はもちろん一般人を惹きつけるような新鮮なものは何もない、といったら過言でしょうか。また、教団の機構改革や財政等、宗務運営の諸問題も旧態依然、改革・改善の兆しも見えてきません。さらに宗会も保身・組織防衛が優先してか、暗雲垂れ込めながらも大政翼賛的無風状態。そんななか、昨年七月沈滞を破る一石が投じられたとか。その波紋の行方や如何に。

 先般、教学研究所の所長が更迭されました。今宗議会でこの問題が取り上げられ、質問に対して宗務総長は法制に照らして適正な人事だと強弁しているようですが、恣意性が見え隠れしています。このことは単に人事問題のみならず、宗務当局の教団運営の基本理念にかかわる問題を孕んでいると思います。それにも増して、宗門の将来に危機感を抱くのは、宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌を期しての教化活動のヴィジョン。全宗門人が感動し奮い立ち、エネルギーが湧いてくるようなものが感じられません。

 昨秋から御遠忌テーマの発表日、五月二十日の「お待ち受け大会」を心待ちしていましたが、テーマが「今、いのちがあなたを生きている」と聞いてガックリ、というのが私の印象。率直に言って「バラバラでいっしょ…」より後退した感じ。このテーマについてはいろいろ解説が加えられているようですが、こうしたキャッチ・コピーは解説よりもファースト・インプレッション、出遇った瞬間に琴線に触れる感動が必要ではないでしょうか。

 御遠忌テーマの発表に続いて宗務総長の「所信表明」がありました。格調高き理念の吐露に終始しているものの、内容が難解のうえ真宗同朋会運動の行方が見えてきません。真宗同朋会運動はどこへ行くのでしょう。「家の宗教から個の自覚の宗教へ」のスローガンのもと、宗門あげての門法実践活動を通して、本願救済の光りに出遇い感涙にむせぶご門徒の誕生を目の当たりにしました。そして、単位同朋会の立ち上げに力を尽くし、組の共同教化にリーダーシップを発揮するご門徒の姿は輝いていました。あのエネルギー、あの感動・感激はどこへ行ったのでしょう。今回のお待ち受け大会で、御遠忌テーマの発表と同時に真宗同朋会運動の新機軸が打ち出されるものと期待していましたのに…。

 教区レベルにおいても、同様に将来の展望が拓けません。教化態勢についても教化方針についても、はたまた宗務行政の機構についても。組織が硬直化して教化施策はお座なりの域を出ず、計画行事の消化といった感を免れません。会議倒れといわれるほど会議を重ねて教化施策を練っても所詮は机上のプラン、マーケティングを欠いた起案では、教区全体に教化方針が浸透し活性化する状況になく、フット・ワークを生かして地域性に配慮したきめ細かい対応が求められます。私自身、そうした点も含めて数年間に亘っていろいろ提案し、イノヴェーションを叫んできましたが、ムラ的組織の官僚の保身か組織防衛か、聞く耳持たぬといった印象。

 翻って一般社会に目を転じますと、凶悪犯罪の増加、加害者・被害者を問わず年少者のかかわる事件の多発等々、殺伐たる状況が絶え間なく報道されています。「宗教家は何をやっているんだ!」との声も。併せて、少子高齢社会の現実も教団にとっては大問題。特にW20以降、寺院の抱える問題は深刻です。もうすでに報恩講の参詣者は減少し、葬儀・中陰不要論が頭をもたげています。現世代が支えていてかろうじてこの状況。このまま推移すれば、次世代・次々世代の時代では教化活動はもちろん、寺院経営においても非常に厳しい状況下におかれることは火を見るより明らか。そうした状況を招かないためにも、今こそ、宗門人が求めるのは、元気の出る教化施策であり、展望の開ける宗務運営でありましょう。

 こうした現状を鑑みる時、政権の母体である宗議会与党真宗興法議員団の現状も、これまた見るに忍びません。発想が硬直化し多数の論理がまかり通り、保身と組織維持のために思い切った政策が打ち出せないという、梗塞合併症≠フような真宗興法議員団ではないでしょうか。まさに教団は危機的状況にあると思います。今こそ宗門の将来を見据えて、信心回復のため新機軸の同朋会運動を実践展開して、真の同朋教団を確立することが求められています。こうした真摯な動きこそ現在のわが宗門には必要欠くべからざるものだと思います。 合掌

《2005.6.15 住職 本田眞哉・記》

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