法 話

(53)「信心不淳

決定の信をえざるゆえ


 信心不淳とのべたもう


 如実修行相応は


 信心ひとつにさだめたり


─親鸞聖人『和讃』
 

先日、愛・地球博(万博)へ行ってきました。2回とも孫たちの先導?で場内をあちこち経巡りました。メジャーな企業館とか、人気の高いパビリオンはご遠慮申し上げ、待ち時間がせいぜい20分〜30分のところを選んで見学しました。それでもそれなりの収穫はありました。

世界各国・各地域の展示館はその国なりの特色を発揮して、自国の文化・産業などの情報を発信していました。いわゆる発展途上の国々の中には、「土産物売り場」に徹した館がある一方、稚拙な展示ながらその国の歴史・文化を改めて知らされるケースもありました。

宗教上の熾烈な対立・戦いが繰り返された歴史の展示を目の当たりにして、現在のその国の平和な姿が信じられない場面も。教義そのものから起こる真正面の対立が戦いの基にあることは言うまでもありませんが、教えに基づいて実践される日常の生活習慣の差異が軋轢を呼び対立に発展することもあるようです。「住」に関してはあまり問題がないかと思いますが、「衣」「食」の面での摩擦についてはよく耳にするところです。

ほぼ同じころ、あるテレビ局のニュース番組で万博の現地人スタッフの食事の問題を取り上げていました。それぞれの信仰する宗教(宗派)によって食事に制限があるという問題。

例えば、イスラム教徒は豚を食べないし、ヒンドゥー教徒は牛を食べません。目で見て明らかに豚肉だ、牛肉だと判る場合は問題ありませんが、ミンチ状になって食材に混入しているケースでは判別が大変難しい。そこで調理する段階でのチェックが必要となります。テレビカメラは調理師が現地人スタッフに食材と調理方法を説明するシーンを捉えていました。

20数年前のことですが、私たちのグループがインドネシアから演奏団を招いて、名古屋・栄の愛知文化講堂(当時)でガムラン音楽の演奏会を開いたことがあります。ご存知のようにインドネシアは世界最大のイスラム教徒を擁する国。

リハーサルを終え、食事の時間となりました。当時の栄界隈では、手軽に食事のできるところは多くありませんでした。そこで愛知文化講堂の地下にありました「みかど」食堂へご案内しました。

入り口のウインドウ・ケースの中のメニューサンプルを見ながら、希望する料理を選んで貰いました。ところが、サンプルを指さしながら団員同士が何やら話し合っていてなかなか決まりません。通訳を通じて分かったことは、それぞれの料理の食材の問題。「ポーク・カツ」などと表示してあるものは食材が明らかですが、ハンバーグなどの場合は食材の中に豚肉が隠れて入っているかどうか私たちでは分かりません。そこでシェフを呼んでくることになりました。シェフの説明を聞いて団員一同納得。ようやく食事にありつくことができました。

これほど厳格ではありませんでしたが、幼いころわが家にも食習慣にタブーがあったこと思い出します。それは毎月両度のご命日には「なまぐさ」を食べないということ。宗祖親鸞聖人のご命日(28日)と本願寺の前住上人のご命日(6日)には魚・鳥獣類を食べてはいけない。精進料理で過ごすという定め。

この食習慣、祖母の発言もきつく、かなり厳格に行われていた記憶があります。また、「お仏供(ぶく)さん」と一緒に「なまぐさ」をたべてはいけないという戒めもありました。つまり、仏さまにお供えしたご飯をいただく時、おかずとして魚や鶏肉を添えて食べてはいけない、ということ。

しかし、今はそんなことは全く無視した料理が食卓に並びます。かつては身内の者の死から忌明(満中陰)までは精進料理で通すという家庭も珍しくありませんでしたが、今は皆無でしょう。それどころか、葬儀の日の骨あげ(初七日)法要のお斎(おとき=食事)ですら刺身・焼き魚・手羽先のメニューが当たり前になっています。

時の流れの中で、こうしたタブーの価値観は揺らぐところでありましょうが、宗教的生活習慣の純粋性が失われつつあることは否めない事実だと思います。先達たちが受け継ぎ伝えてきたわが真宗の良き伝統の一面が不淳化してきたといえましょう。

今世界中の関心を集めているイスラム教徒の動きは、宗教の不純化に対するアンチ・テーゼではないでしょうか。もちろん過激なテロ行為は論外ですが、宗教の純粋性を追求する真摯なイスラム教徒の生活態度には学ぶべき部分があろうかと思います。万博会場でもイスラム教徒のスタッフは1日5回、時間になるとメッカの方角に向かってきちんと礼拝をするとか。西欧をはじめ日本の文化圏にあっても、他の眼を気にせず自分の宗教信条を貫く姿は純粋性を保持することに誇りを持っているように見えます。

翻って、わが真宗門徒においてはいかがでしょうか。鎌倉時代親鸞聖人が開顕された本願念仏の教えは、当時過激ともいわれるほどの純粋性に充ち満ちていました。そしてその純粋性の故に、朝廷を始め時の権力者からは度重なる弾圧を受け、ついに親鸞聖人は流罪になりました。北陸の辺境の地に配流(はいる)されるという逆縁を縁として、辺地の群萌(ぐんもう)ともども本願念仏の教えを聞き開き伝えて、まさに「自信教人信(じしんきょうにんしん)」の歩みを続けられました。

そうした聖人の信心の純粋性を象徴するお言葉が『歎異抄』には次のように記されています。

  親鸞は父母(ぶも)の孝養(きょうよう)のためとて、一返にても念仏もうしたること、い まだそうらわず。(後略)

親鸞聖人は父母の「追善供養」のために念仏したことはこれまでに一度もない、という意味です。鎌倉時代の仏教界の常識、あるいは現代の真宗以外の仏教諸宗派の教義と対比すれば、この親鸞思想は全く異質、いや異端といわれても仕方ありますまい。一般的には「追善供養」することは、文字通り追っかけて善いことをすること善根を積むことで、「良いこと」とされている価値観。

しかし、善根を積むといっても所詮「自力の行」。聖人は、ご自身の比叡山での20年間に及ぶ修行・学問に照らしても、果たして純粋な善行が成り立つのだろうかという疑問を抱き、徹底的に自己の内面を追求されたのであります。父母のための供養といいながら純粋にそう言いきれるだろうか、という疑問が常に頭をもたげてきました。そしてその根底には、自分ためというエゴの姿が見え隠れすることに気づかれたのです。

ここに「自力」の限界を感じられた聖人は、比叡山を下り京の巷で念仏の教えを弘めておられた法然上人のもとを訪ねられ、本願他力の教えに出遇われたのです。聖人は主著『教行信証』の後序の中で、この自力から他力への転向の感動を「愚禿釋の鸞(ぐとくしゃくのらん)、建仁辛の酉(けんにんかのとのとり)の暦、雑行(ぞうぎょう)を棄てて本願に帰す」と高らかに謳っていらっしゃいます。

聖人の開顕された本願念仏の教えを受け継ぎ伝える使命を帯びた私たち真宗門徒としては、ともすると時代と世間の波に迎合しがちになりますが、その信心の揺らぎ・「不淳の信心」を正して、聖人の宗教的純粋性を確保していかなければならないと思うや切であります。合掌

《2005.7.22 住職 本田眞哉・記》

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