法 話

(54)「無耳人(むににん)

大聖易往(だいしょういおう)とときたもう


 浄土をうたがう衆生(しゅじょう)をば


 無眼人(むげんにん)とぞなづけたる


 無耳人(むににん)とぞのべたもう

─親鸞聖人『和讃』
 

8月末に風邪を引いてしまいました。一時は39度8分の発熱でどうなることかと心配しましたが、単なる風邪のようで一安心。というのも、中国は雲南省の中甸(ちゅうでん)という山奥から帰国したばかりだったので、サーズか鳥インフルエンザに感染したのではないかと不安でした。

町医者にかかって薬を飲み続けても体温は7度〜8度5分の繰り返し。発熱6日目の月曜日、近くの国立長寿医療センターへ行き診察を受け、胸のレントゲン写真を撮り、尿と血液の検査もして貰いました。結果は全て異状なし、単なる風邪とのこと。

ただ、もう一点、右耳がボカーンとなっているのが問題。内科の先生は「耳鼻咽喉科へ行ってください」とおっしゃる。ところが、センター内の耳鼻咽喉科はその日は診療のない曜日。「最寄りの耳鼻咽喉科で診てもらってください。放っておくと難聴になりますよ」とのご託宣。

早速その日の午後、近く(といっても家から約5q)の耳鼻咽喉科へ。問診票を見て、喉と右耳を覗いて「風からきた中耳炎です。風邪が治れば治ります」とあっさり診断。1分足らずで判決が下りました。

いただいた資料によれば、「滲出性中耳炎」。風邪による喉の炎症から、鼻の奥と中耳腔を繋ぐパイプ「耳管」が詰まって、鼓膜の奥(中耳腔)の気圧が外気圧より低くなり、浸透圧の関係で滲出液が中耳腔に溜まり中耳炎を引き起こすとのこと。一般的な中耳炎と異なり痛みを伴わないのが特徴とか。いずれにしても原因がはっきりして気が楽になりました。1週間分の薬をいただいて服用中。

発熱以来10日目でようやく風邪の熱は治まり、体温は平熱に戻りやれやれ。ところが耳のボカーンは依然として継続中。片耳故障とはいえ、人の話は聞きにくいし自分も話しづらい。健常な時は何とも思わないが、耳が聞こえることの有り難さを改めて感じた次第。

仏教では耳は「五感」を感じ取る器官の一つ。その器官とは、眼(げん)、耳(に)、鼻(び)、舌(ぜつ)、身(しん)。その認識機能も含めて「五根(ごこん)」とも言います。もちろん対象となる感覚は、それぞれ視覚、聴覚、臭覚、味覚、触覚ということです。

ところで、人間が死に至る時、最後の最期まで残る感覚は何でしょう。古来それは聴覚だと言われています。耳は最後まで聞こえていると…。名古屋地区では、医師の「ご臨終です」とのことばを受けて、直ちに連絡するのは手次のお寺。夜中の2時・3時でも電話が入ったことも。最近ではそれほどではなくなりましたが、とにかく早く「枕経」を読んでほしいとのご依頼。

この「枕経」には二つの意味があるやに聞き及んでおります。一つは「検死」の役割。かつて寺が、行政や検察の一翼を担っていたころの名残かと思われます。もう一つは、死者にお経の声を聞かせて仏の教えを悟って貰おうというねらい。

「エッ?死んでからでも耳は聞こえるの?」という疑問の声もありましょう。至極当然のこと。が、前述のように聴覚は「死後」幾ばくかの間残っていると言い伝えられていますので、その辺に根拠があるのではないでしょうか。したがって、親の死直後に枕許で遺産相続のことで兄弟げんかなどしようものなら、親の耳には聞こえているよ…などといった教訓めいた話もあります。

数年前でしたか、臓器移植法関連の議論の中で「脳死判定」の問題が浮かび上がったことがありました。どういう状況になったら「脳死」と判断するかという問題。確かいくつかのチェック・ポイントがあって、全てのポイントのデータが基準を満たした場合に「脳死」と判定するといった方向だったと思います。

そのチェック・ポイントの一つに耳・聴覚があり、判定基準の中でも大変重要視されていた記憶があります。聴覚が最後まで残るとかいった議論ではなかったかと思います。先輩・古老たちが受け継ぎ伝えてきた「枕経」の伝統の中にも生体・死体議論の根拠があったのかも…。

話があらぬ方向へ脱線してしまいましたが、わが真宗・親鸞聖人の教えでは、「信心為本」といいまして信心がその要。その信心の基になるのが修行ではなく「聞法(もんぽう)」、仏法を聴聞(ちょうもん)すること。そして、聴聞するには「耳」が重要な役割を果たします。

人間の耳は、外音を自動的に取捨選択して聞き分ける能力を持っています。周りの雑音を排除して聞きたい音の方へ聴力を集中することができます。マイクロフォンの集音機能が全ての音に対して平等にはたらくのに比べて、人間の聴力は大変優れものです。

ところが、仏法聴聞においてはこの人間の耳の優れた機能が逆に邪魔をします。仏さまの教えの内容も、自分の物差しを当てはめて聞き取ってしまうという問題です。正法を聞いても自分の都合の良いように解釈して受取り、結果的に正法に背いてしまう。親鸞聖人は、ご和讃の中でこうした行者を「無耳人(むににん)」、すなわち耳なき人だとおっしゃっています。

同様に他力の仏法・浄土の教えを疑う衆生は「無眼人(むげんにん)」、眼はあっても眼なき人と詠っていらっしゃいます。心すべきことだと思います。   合掌

《2005.9.10 住職 本田眞哉・記》

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