法 話

(55)寄稿「伝承」

別項でもお知らせしましたが、住職が04〜05年度会長を務めた知多シニアライオンズクラブでは “語り部冊子”『伝承』を出版しました。風化していく戦争体験や災害体験を次世代・次々世代へ語り継ぐとともに、非戦・平和の意義と災害に対する危機管理意識の昂揚の一助になればと、社会に対する奉仕活動の一環としてこの事業を実施したわけです。

おかげさまで今年3月成功裏にこの出版事業(アクティビティー)は円成しました。このことが中日新聞で報道され、ご覧になったご門徒の永井力氏が、先月初めにご自身の少年時代の体験記をお寄せくださいました。有り難うございました。ここに掲載し公開することとしました。過酷で希有な実体験の様子が事細かに認められています。この記録がいずれかの折、次の世代、また次の世代の眼に触れ、語り継がれれば幸甚の至りです。【写真】は戦時中の紙芝居の表紙

なお、永井家は作家・永井荷風の系譜の一門で、永井力氏の厳父永井勝三氏も筆まめな方で、昭和37年初頭創刊間もない了願寺寺報『受教』に「尾張藩永井家と当時関係調査」と題する玉稿をご寄稿いただきました。合掌《住職 本田眞哉・記》

―戦いの中に埋もれた私の少年期―(上)

知立市  永 井  力

北朝鮮の会寧(ホエリヨン:金正日総書記の母の出身地)から命からがら引き揚げ、父母の故郷鳴海の地に辿り着いたのは忘れもしない昭和21年12月のことだった。生まれも育ちも北朝鮮、幼い時に一度訪れた日本ではあるが記憶はなく、見るもの聞くこと初めてともいえる日本であった。

親類は何軒かあったが定かではなく、戦後の厳しい現実生活の中我われは招かざる客であった。家族7人何とか日本に辿り着いたものの、小生15歳を頭に食べ盛りの子ども5人、職もなく住まいもない現実、両親も大変だったと思う。

私自身終戦により勉学は中断、無収入のなか学問どころではなく、とにかく稼がなければならなかった。そうしたなか、昭和22年春のお彼岸だったと思うが、了願寺へお伺いして先祖のお墓にお参りした。本堂の裏に並ぶ幾つかの墓について、父はそのいわれを細々と話してくれたが、今その記憶は定かではない。

思い起こせば昭和16年12月8日、当時4年生だった小生、今でも忘れられないできごとがあった。それは教室のストーブを囲んで皆で激論したことだ。ある者は日本の勝利は絶対だとし、他の意見に対しては「売国奴」「亡国論者」と決めつける。一方ある者は、彼我の国力を比較して前途に不安を抱く。今考えると小学4年生がよくも考え議論したものだと思う。

それから4年後昭和20年8月9日ソ連軍が参戦、そして同じく8月15日敗戦になったのはご存知のとおり。日本人は軍人を除いて4,000人住んでいたが、みな身ぐるみはがれて流浪の民となったのである。

4,000人の内日本に帰り着いたのは、正確なことは分からないが約半数。残りの半数の内半数が伝染病で亡くなり、あとは殺されたり餓死したり、あるいは自殺で亡くなった人たち。中には残留した人もいた。小生卒業時の同級生80名の内、現在消息が判明している人が40名。上記の数字の概算推測の裏付けともいえるのでは…。

さて概観的なことはこの辺りにして、もう少し具体的なことを記してみよう。小生の生まれ育った町は、現在の北朝鮮と中国東北部延辺朝鮮族自治区との国境の朝鮮側の町。当時人口は25,000人。日本陸軍第十九師団歩兵第七十五連隊、工兵十九連隊、飛行旅団、野戦重砲連隊、糧秣廠(りょうまつしょう)、軍馬補充部等の軍の機関が集中し、北朝鮮最北の軍都と言われていた。また豆満江という国境の大河を利用した材木の集散地でもあり、さらに朝鮮屈指の産炭地でもあった。

当時日本から行くには下関から関釜(かんぷ)連絡船で朝鮮の釜山に渡り、京城(けいじょう・現ソウル)で牡丹江(ぼたんこう)行きの急行列車に乗り換え10時間以上かかる。日本から来る人には遠い異国の地であるが、私たちにとってはかけがえのない故郷であった。

学童の家庭環境は大別して軍関係、会社関係、役所関係、地方住民に分類されるが、終戦時の対応もそれぞれに違いがあった感じだった。勿論それぞれが画一的ではなかったが、大別して「体制派」か「反体制派」といったニュアンスを感じていた。

《次号へ続く》

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