法 話

(56)寄稿「伝承」その2

―戦いの中に埋もれた私の少年期―(下)

知立市  永 井  力

8月13日の避難指示、否、命令は300qの道のりを、老人子どもを含む一般市民に「歩いて避難せよ」として出された。実際には何ら輸送手段の裏付けもなく、わが町への露西亜軍の侵攻に対する焦土作戦上我々が邪魔だったに過ぎないと私は見ている。

東北朝鮮に日本人はどのくらいいたのか正確なことは知らないが、いずこの町においてもかなりの方が亡くなられたのであった。

また、私は8月14日から父の経営する炭鉱近くの坑木伐採場の小屋に約3ヶ月避難していたが、敗残兵となった日本兵に何人あったことか。前歴は聞いていないが、両袖の中に手榴弾を肩からつるし、食べ物は無いかと立ち寄って去って行く。時には満蒙開拓義勇軍の人もいた。小生より1〜3歳先輩の方々である。そして時々爆発音。母の話ではかの兵隊が自殺したのではないかと。

避難は必ずしも南へとばかりでなく、中には満州経由で帰国を考える人もいた。妹の同級生、母親同士も仲良くしていた方が満州を目指したが、列車の運行がストップ。「生きて虜囚の辱めを受けず」と豆満江河畔で連隊将校夫人全員が爆弾自殺をされた。

この話は実際に立ち会った連隊長の従兵よりもたらされたのであった。その他同級生の家族の話、妻子を失った先生の手記、日本人会の記録などなど、ほとんどの人が何らかの痛手を負って生きてきたことを物語っていた。

 大東亜戦争といわれた先の大戦では、敗戦の日を過ぎても敗戦を知らず、17日ごろに町へ行って来た父親よりもたらされた。それまでは日本の勝利を信じ、「滅私奉公」「欲しがりません、勝つまでは」と学徒動員に耐えてきただけにがっかりした。

が、両親は驚く様子もなく、冷めた目で当時の指導者であった「軍人」「役人」の言動を見ていたようだ。父親は体制の指示に従わず独自の判断で行動したが、このことが家族7人揃って帰国できた最大の要因だと思う。

戦争の被害は日本人全員が何らかの形で受けているだろう。名古屋の大空襲を経験した人に言われた「君たちは空襲の経験は無いだろう、それだけでもいい」と。確かに空襲によって多数の方々が亡くなり大変だっただろう。しかし比較しても始まらない話だ。

明治維新後、「日清戦争」「日露戦争」で勝ち奢れる日本は、その指導者に人を得ず、結果として国民に大きな負担をかけただけでなく、近隣の諸国にも大きな迷惑をかけたのであった。

昨今、中国の反日デモ、竹島問題、ガス田探査問題等、近隣諸国の日本に対する対応に不満な面もあるが、全て感情に走らず良識ある態度で臨むことが重要であろう。《完》

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