法 話

(6)「非戦・平和の誓い」

  「現地からの情報によりますと、天候は雨、気温は摂氏20度とのことです」とキャセイ航空CX532便のアナウンス。降り立った名古屋空港は情報通り雨でひんやりとしていました。8月30日午後9時20分のこと。ホーチミンシティーとカンボジア・アンコール遺跡踏査研修の旅は所期の目的を達成し、ここに団員全員無事帰国することができました。

 この研修の旅は、私が会長を務める「アジア文化交流センター」の研修事業の一環として毎夏実施しているもの。2001年度はベトナム仏教会との交流とカンボジアのアンコール遺跡の踏査研修をメインに、JICAカンボジア事務所を訪問して日本の国際協力の実情も学ぼうと企画したものです。ベトナム仏教会との交流は、4年前に企画しアポイントメントまで取ってあったのですが、台風のため香港で足止めを喰って実現できなかったいわく付きの事業。今回はいわばその雪辱版。

 団員12名に添乗員1名という小パーティであったため、小回りが利き時間のロスも少なく、大変有効有意義な研修旅行ができました。私自身は32年前の1969年にカンボジア、そして1997年にはベトナムを訪問していますが、それぞれ比べてみて大きく変わったところ、あまり変わらない部分等いろいろあって、学ぶことの多い1週間でした。

 8月25日(土)予約の午後2時少し前に印光寺(Chu An Quan)に到着。印光寺はベトナム・ホーチミン(旧サイゴン)市の10区の町中にありました。あまり広くない境内に鉄筋コンクリート2階建ての建物が建っていて、1階が応接室で2階が本堂。境内には参詣者も多く、読経の声も聞こえ、賑やかで活気に満ちていました。

 まず1階の応接室で、住職の釋智廣(Thich Tri Quang)老師をはじめ僧侶方の出席のもと、私たちのレセプションが開かれました。アジア文化交流センターを代表して、団長の私から訪問の趣旨とお礼の言葉を述べさせていただきました。続いて黄衣に身を包んだ釋智廣老師から歓迎のご挨拶がありました。ホーチミン市仏教会長を務める老師は、柔和な顔つきに優しい言葉「和顔愛語
(わげんあいご)」の温厚なお人柄とお見受けしました。が、ある情報通によれば、老師はホーチミン市の仏教界のみならず社会・経済面でも、これからのリーダーシップが期待されているキーマンだそうです。立正大学に留学経験があり、日本語も堪能。

 机上の果ものや飲みものをいただきながら両国の宗教活動について情報交換。寺のあり方についての質疑応答の中で、日本が宗教法人組織であるのに対して、ベトナムでは市の委員会の組織に位置づけられているとか、基本的なシステム面での違いもわかりました。ここで詳細に触れる余裕はありませんが、大変有意義な交流学習ができました。最後にアジア文化交流センターからお布施やおみやげを呈上し、印光寺ご住職からは本を頂戴し交流会を終了。
 
 そのあと2階の本堂へ上がって勤行をさせていただきました。ネオンサインの光背輝く本尊さまの前でパーリ文の「三帰依
(さんきえ)」と「嘆仏偈(たんぶつげ)」を一同唱和。本堂はきれいに荘厳され、いかにも南方仏教を象徴するかのような明るい雰囲気。最後に失礼ながら本尊さまにお尻を向けて記念撮影。智廣老師に歓待のお礼を述べ別れを告げました。

 20分ほどバスを走らせて市内3区にある永厳寺に到着。本堂前テラスでは副住職の釋清風(Thich Thanh Phong)師が黄衣姿でお出迎え。合掌礼で挨拶を交わし堂内へ。広大な本堂の中心ご本尊の前へ進み、団員一同声高らかに勤行をさせていただきました。続いて、山門近くにある住職の釋清検(Thich Thanh Kiem)老師の仮墓前に座を移して、パーリ文の「三帰依」を唱和して参拝。老師は昨年12月亡くなられた由。したがって、現在住職は空席とのこと。

 雷鳴轟く中、レセプションルームへ案内され交流会を持ちました。雷雲のため室内が暗いのかなと思いましたら、停電とのこと。蛍光灯のランタンで顔を照らしながらのご挨拶・意見交換となりました。印光寺での交流会と同様に、宗教活動についての質疑応答を中心に熱心な話し合いが進められました。そうした中、非常に印象的だったのはやはりベトナム戦争に関することでした。

 わが副団長からの質問がベトナム戦争に及んだとき、副住職は顔を紅潮させ語気荒く戦争反対を提唱し、アメリカの侵略に抗議し、民族自決を訴えていらっしゃいました。これを受けて副団長が、日本も悲惨な戦争を経験しており、何よりも平和が大切だと発言したときには、表情を和らげその通りだと頷いていらっしゃいました。

 戦争を好み、平和を否定する人は誰一人いないと思います。人類の歴史の中で「悲惨な戦争は二度と繰り返してなならない」と幾たび誓われたことでしょう。にもかかわらず、人知が進んだ今も地球上のどこかで戦闘が行われています。イデオロギーのため、自国の権益のため、あるいは民族自決の名の下に、はたまた皮肉にも、いのちの尊厳を旗印とする宗教のぶつかり合いの中で非戦・平和の誓いはことごとく破られています。

 ベトナム戦争も例外ではありませんでした。アメリカの介入によって東西両陣営の代理戦争の場と化し、イデオロギー対立の文字通り泥沼の戦争にはまり込んでしまったのです。民族独立のための鉄の戦意を持った南ベトナム民族解放戦線の粘り強さに、アメリカ軍は撤退を余儀なくされたのです。クチの地下トンネルを実際にくぐってみて、解放戦線の団結力がいかに強固なものであったかを実感。強固な民族意識が及び腰のアメリカ軍を追い出したのです。

 ベトナムの宗教事情は、仏教徒が全人口の90%とも70%ともいわれています。仏教徒が平和を希求することはいうまでもありません。中でも仏教の僧侶や尼僧は先頭に立って戦争に反対しアメリカ侵略に抗議しました。先述の印光寺の釋智廣住職も話し合いによる民族統一を徹底的に主張し、反政府活動に身を挺したとのこと。

 金剛の信仰心でアメリカのベトナム侵略とゴ・ディン・ジエム政権の仏教弾圧に焼身抗議をした僧がいました。その名はティック・クアン・ドク師。今でも私の脳裡から離れないあの写真。サイゴンの路上で座禅を組んだ仏教僧が炎に包まれている写真。全世界の新聞のトップに掲載されたのです。アメリカのケネディ大統領が暗殺された年1963年の6月のこと。ショックでした。聞くところによれば、焼身遺体に残された師の心臓が保存されているとか。

 永厳寺からの帰途、さほど遠くないところの街角にティック・クアン・ドク師の記念碑(供養塔)が建っていました。記念碑は、高さ数メートルの八角形の塔で、塔の中央にはドク師の遺影がはめ込まれていました。団員一同碑前に威儀を正し、パーリ文の「三帰依」を唱和してお参りしました。今はバイクの爆音?賑やかな、ドク師焼身の現場に立ってお勤めができ感慨一入。反戦・平和の願いに文字通り身を焦がしたドク師の遺志が碑に刻まれ、道行く人に感銘を与えるとともに、平和の願いを永久に訴え続けていくことでしょう。悲惨な戦争を経験した私たちも、碑を前に非戦・平和の誓いを新たにした次第です。感動深い黄昏のひとときでした。

 ところで、お釈迦さまは戦争と平和についてどのようにお教えくださっているのでしょう。『仏説無量寿経』には「兵戈無用
(ひょうがむよう)」とお示しくださっています。「兵戈」は「戦争。軍隊や武器。」(中村 元著『仏教語大辞典』)のこと。戦争は今から2500年前のお釈迦さまの時代からあったのでしょう。先日訪れたアンコールワット(12世紀建造)の第1回廊には、槍と刀による数々の戦闘場面の壁彫がりありました。

 時代が下るにしたがって、文明の発達により戦闘は大量殺戮をともない悲惨さを増してきました。その極みが原爆でしょう。世界で初めて原爆の洗礼を受けた日本は、全世界に向けて非核・非戦・平和を訴える人類としての責務を負っていると思います。そうしたアクションこそまさにお釈迦さまの「兵戈無用」の教えに叶うことではないでしょうか。 合掌。
      2001.9.1.本田眞哉・記】

 

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