法 話
(60)「いただきま〜す」(上)
私たちは、食卓に出された牛肉・魚などの生き もののいのちを見出すこともなく、しかも自分が いのちを奪っているという思いはほとんどないわ けです。いつも、他人に殺させておいて平気でい る自分がいるわけでしょう。 |
中村 薫『いのちの根源』より
昨日、地元の小学校で学校給食会の場にお相伴させていただきました。その給食会、名づけて「バイキング給食」。卒業まで残り日数14日となった6年生へのプレゼントとして、この時期に毎年行われる恒例の催し。
6年生全員が一堂に会して楽しくいただく特別メニューの給食。招待された教育委員やPTA委員、そして関係の教職員が子どもたちと同じテーブルについて会食。私も教育委員の一員として同席させていただきました。
体育館に20脚ほどの食卓が設えられ、ワンテーブルに6人が着席。アリーナ中央には2列の調理品のラインが設けられ、品数豊富な料理や鍋がズラリと並んでいます。子どもたちは食器を乗せた大きなトレーを持って好みの料理やデザートをピックアップ。もちろん好みによってチョイスが偏らないようにルールが定められています。
児童・ゲストとも全員が席に着いたところで、校長先生とゲスト代表のあいさつ。続いて給食当番の児童がマイクを持って開始のことば。「手を合わせてください」。すると、フロアーから「手を合わせました」の声。間髪を入れず、児童・ゲストが声をそろえて「いただきま〜す」。
私としては20年ほど前から見聞している場面、微笑ましい光景です。いつまでも変わらず伝統ともなっているこうした生活習慣を関係者としては改めて誇りに思いました。といいますのも、何年か前、こうした作法に父母からクレームが付いたことを思い起こしたからです。
曰く、「公教育の場に宗教を持ち込むのはもってのほか」「一宗一派の儀式を公立学校の給食時に強制するのは憲法違反だ」などというご意見だったと思います。それで、どこの学校だったか、どこの県だったか忘れましたが、手を合わせて「いただきます」「ごちそうさま」と言うのを止めたという報道もありましたっけ。そうした学校は黙って勝手々々に食べ出すのでしょうか、それとも「よーい、食べよ」とでもいって食べ出すのでしょうか。
《次号へ続く 2006.3.2 住職 本田眞哉・記》