法 話

(61)いただきま〜す」(下)

 
 私たちは、食卓に出された牛肉・魚などの生き

もののいのちを見出すこともなく、しかも自分が

いのちを奪っているという思いはほとんどないわ

けです。いつも、他人に殺させておいて平気でい

る自分がいるわけでしょう。

              中村 薫『いのちの根源』より
 

「人間は自分一人では生きて行けない」ことは今更言うまでもないこと。もう一歩つっこめば、「人間は自分の命を維持するためには他(の生き物)の命を奪わなければならない」という宿業を背負って人間は存在し得ているのです。

他の命を奪うということは、他の生き物を殺すということであり、生・殺相矛盾するテーゼを踏み台として生きているのが人間であります。ただ、そうした状態に「平然」としていられるかどうかが問題。もちろん他の動物も同様な生き方をしていますが、そこに「平然」ということ自体感じているかどうかといえば甚だ疑問です。否、皆無といってもよいでしょう。

その人間の「平然」としていられるか否かの意識への問いかけのキーワードが「いただきます」であり「ごちおすさま」なのでしょう。自分のいのいちの営みへの真摯な問いかけの言葉を一緒に声を出して確かめることがなぜ「一宗一派の宗教的儀式の強制」と非難されるのでしょうか、理解に苦しむところです。

因みに、「手を合わせる」という行為も「一宗一派」に限られるものでなく、世界中のほとんどの宗教でディテールの違いはありましょうが、共通して行われている祈りの姿だと思います。人間の「心」を問う時の身体の動きは手を合わせることと、身を投げ出してひれ伏すことに尽きるのではないでしょうか。

両手を胸の前で合わせるということは、文字通り「心」が「ハート」へ帰趨することであり、同時に武器(我)を棄てて一心に祈る姿でありましょう。一方ひれ伏す姿も、全ての装飾物をはぎ取って頭を下げ、裸になって全身を投げ出し、全てを神や仏にお任せすることを宣言しているのでしょう。自分をゼロにして絶対者に帰依・帰投する姿なのです。これまさに「五体投地」。

話を元に戻して、給食のはじめに児童・生徒が手を合わせて「いただきます」、そして終わったら同じく手を合わせて「ごちそうさま」をするのは、食材を生産してくださった方々や調理に携わった人々に感謝の気持ちを表すことはいうまでもないことですが、それにも増して、私の命を支えるために命を奪われた「生き物」に対する人間の心の痛みを子どもたちに目覚めさせる絶好の教育の場であると思います。

牛や豚にも魚にも命があります。大根だってニンジンだって、お米だって命があります。その尊い命をいただいて私の命が維持されているのです。大自然の、大きな大きな一つの命を、生きとし生けるものが共に生きているのです。生態系の循環の中の一員として、大自然の恵みへの感謝と痛みの心を忘れずに毎日毎日の食をいただきたいものです。

2006.3.2 住職 本田眞哉・記》

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