法 話

(64)手当て」

 ただ音もせずして臥しておわしませば、
 
 御身をさぐれば、
 
 あたたかなる事火のごとし。
 
 頭
(かしら)のうたせ給うことも
 
 なのめならず。

『恵信尼(えしんに)消息』より

※恵信尼=親鸞聖人の妻 消息=手紙

先日ある会合で、某大学医学部教授の話を聞きました。その話の要点は「診療には医師の手の五本の指の感覚が大切だ」ということでした。ところが医学部の学生はもちろん、若い医師たちはこのことをあまり重要視していないとのことでした。そうそう、昔から「手当て」ということばがあります。辞書には、「病気や傷の処置」と出ております。

診療時に患者の身体に医師が手を当てたことから生まれたことばなのでしょう。実際、昔と言わないまでも、以前は病院・医院で診察を受けるとき、先生は必ず患者の肌に手を触れて診てくださいました。

診察室の回転椅子にかけると、先生はまずのどを覗き、そして聴診器を胸に。数カ所に聴診器を当てて呼吸の音や胸膜音、そして心臓の音等じっくりと聴きます。先生が聴診器の動きを止めて、首を傾げながら慎重に「聴診」しはじめると、どこか悪いのかと心配になります。患者の訴えによっては、その部位例えば喉のあたりを両手のひらで撫でて異状がないか診ます。

次は背中の聴診。くるりと椅子が回転して、背中の数カ所に聴診器を当てて診察。続いて手のひらを患者の背中に当てて、肌の色つやを目視(「視診」)しつつ背中全体を軽く撫でます。五本の指先と手のひらの感触(「触診」)で患者の何かが判るのでしょう。そして左の手のひらを背中に当て、右手の指先をそろえて左手の甲をコンコンと叩きます。場所をずらして数カ所こうした「打診」をします。指先の感覚と帰ってくる音によって何かを掴むのでしょう。

続いてはベッドでの診察。横たわった患者のおなかに異状がないか手で診ます。両膝をたてて仰向けに寝ると、先生はおなかのあちこちを撫でたり押したり掴んだり。時にはかなり力を入れて胃や腸を揉みほぐすような感じのこともありました。つい「痛いッ」と声を上げたこともありましたっけ。

しかし、最近はこうした手や指を使った診察を受けることはほとんどありません。ただ、これは私だけのことかもしれませんが…。今は聴診と血圧測定だけは診察室でやっていただけなすが、あとは全て「検査」。血液検査と機器による検査。自覚症状で不審な点があって相談しても、その部位に手で触れることもなく、「検査しましょう」。

以前に比べれば検査は長足の進歩を遂げています。技術も試薬も機器も。特に機器は日進月歩、IT機能も加わって技術革新が進んでいます。しかし、あまりにも機器任せ、検査任せのために医療過誤が起きているのも事実です。今流行りのプログラム・ミスとやらで、誤診もあれば死に至ることも。機器も検査も第一歩はやはり人間の「手」によるもの。「手当て」は欠かせないものだと思います。

こうしたことは単に医療の世界のみならず、今日の社会一般にも通じる問題だと思います。教育・子育ての世界でも、福祉・介護の世界でも「手当て・ぬくもり」の心は欠かせないものだと思います。利便性の追求のためとて、あらゆる分野のシステムに入り込み重宝なツールとなっているITですが、IT一辺倒になれば「手当て・ぬくもり」の視点が失われ、思わぬ落とし穴に直面することになるかも。ハード・ソフトともにテクノロジー偏重は厳に慎むべきでありましょう。                      合掌


《2006.7.1 住職・本田眞哉・記》

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