法 話

(65)顛倒の妄見

  祇園精舎の鐘の声、

  諸行無常の響きあり。

  沙羅双樹の花の色、


  盛者必衰の理を現す。

『平家物語』より

 先日ご門徒の男性の方が亡くなられました。不慮の事故で。享年63歳。まだまだ若いのに…。訃報が入ったのは28日の夜。翌日午前中に枕勤めにお伺いし、葬儀等の日取りを調整して決めました。

 故人は一人暮らしで、余生の楽しみとして時々漁に出かけていたようです。出かける前に誰にも知らせていなかった模様。27日に警察から兄のお宅へ身元問い合わせの電話が入ってビックリ。大騒ぎの末弟さんに間違いないということになり関係者一同がっくり。

 多方面からの情報を総合してみると、25日にウナギを捕るために船で沖の方へ出かけて行ったようです。エンジン付きの船の後ろに小さな釣り舟をロープでけん引していて、何かの拍子にロープが外れてスクリューに巻きついたようです。そのロープを外そうとして海に転落したのではないかと推測されます。

頑健な身体の持ち主で、しかも船を操ることには慣れていたのに、どうして海に落ちたのだろうかと誰もがいぶかることしきり。通夜・葬儀には、交通安全、消防などの役職の関係もあって大勢の会葬者がお参りしました。参列者の多くは、あんな元気でしかも海のベテランの彼がどうして死んでしまったのだろう、と異口同音に彼の急逝を悼んでいました。

また、10日ほど前に彼に会ったという友人の話では、「海へ行ってウナギを捕ってくるからな、“うなどん”の用意をして待っておれよ」などと言っていたとか。誰もが彼の突然の死が信じられないといった表情。

まさにこの世は無常「常ならざる世界」なのです。かの有名な『平家物語』の冒頭の一節には、「祇園(ぎおん)精舎(しょうじゃ)の鐘の声、諸行(しょぎょう)無常(むじょう)の響きあり。沙羅(さら)双樹(そうじゅ)の花の色、盛者(しょうじゃ)必衰(ひっすい)(ことわり)を現す。…」とあります。

「諸行」というのは、「万物」の意。「諸行無常」という四文字熟語は、万物は常に変転して止むことがない、という真理を濃縮したもの。因みに、これに「諸法無我」と「涅槃寂静」を加えて、仏教の「三法印」といいます。いわば仏教の旗印。

私たちは一刻の猶予もなく移り変わってゆく世界に生きているのだと真理がお教えいただくのです。なお、「無常」の反対は「常住」。常住の世界は涅槃寂静の世界、生滅・変化がなく、全く平和で永遠に存在する世界。これを親鸞聖人の教えでは「浄土」といいます。

ところが、私たちは、いま生きているこの世界を常住の世界、生滅・変化のない世界だと勘違いしています。特に自分自身に関しては。明日の予定は、ああしてこうして…、明日の朝目が覚めるのは当たり前だと思っています。しかし、世は無常、目が覚めないことだってあります。否、むしろ目が覚めないのが当たり前なのです。仏教の教えに照らせば。

目が覚めないのが当たり前なのに目が覚めたとなれば、これほど有り難い(・・・・)ことはありません。文字通り「有る」(起こる)ことが「難い」(難しい)世界に直面した感動は計り知れないものがありましょう。万物が変転して止まないこの世で、昨日と変わらず目が覚めて生かさせていただけることは何ものにも代え難い喜びでしょう。

しかし、なかなかそういう感動・感謝の念が沸いてこないのも私たちの存在の事実です。その原因は価値観の転倒にあると思います。無常の世界を常住の世界と勘違いしている価値観の転倒。これを仏教用語では「顛倒(てんどう)(もう)(けん)」といいます。もっと罪深いのは、自分の価値観がひっくり返っているという、そのこと自体にすら気づいていないということでしょう。

このことを明らかにしようと、人間の頭で、人知でひねくり回していても問題の解決には至りません。顛倒の妄見から抜け出すことはできません。仏さまの光、仏さまの智慧の光に照らされなければ、顛倒の妄見に呪縛された自分に気づくことはできません。仏さま・阿弥陀如来は、愚かな私たちに気づいてくれよという願いを四六時中私たちに掛けてくださっているのです。しかし私たちはそれに気づいていません。私たちが一刻も早く仏法・仏さまの教えに出会うことが求められているのではないでしょうか。

合掌

《2006.8.1 住職・本田眞哉・記》

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