法 話

(66)四海みな兄弟なり


  とおく通ずるに、

  四海みな兄弟なり。


  

『安心決定鈔』より

 8月下旬チェコを訪れる機会がありました。首都プラハとドイツ国境に近いポペチョヴィッツェの町。私が会長を務める「アジア文化交流センター」の夏の研修旅行の中で。プラハはともかく、聞いたこともないポペチョヴィッツェなどというところへ何をしに行ったのか、というお尋ねもあろうかと思います。ごもっとも。日本人でこの地名をご存じの方は数少ないと思います。

 研修旅行のテーマは「ヨーロッパに“アジア”を訪ねる旅」。今回はそのシリーズ最初の旅行で、サブテーマは「─クーデンホーフ光子ゆかりの地を巡って─」。そう、もうおわかりでしょう。明治維新間もないころ、青山光子(みつ)は、オーストリア・ハンガリー二重帝国駐日公使のクーデンホーフ・カレルギー伯爵と結ばれました。そのクーデンホーフ光子の生涯を偲んでゆかりの地を訪ねようという企画です。

 東海道線が開通し、帝国憲法がようやく制定された時代の国際結婚は、驚天動地の出来事だったでしょう。日本での結婚生活ののち、夫とともに欧州へ渡ったクーデンホーフ光子は、1896(明治29)年ロンスベルグ城の城主夫人に。そのロンスベルグ城のある町が、現在のチェコ共和国ポペチョヴィッツェ。

 同じ土地が何度も国名を変え、地名を変えるヨーロッパ。そうした中でクーデンホーフ光子は荒波にもまれながらも「黒髪の伯爵夫人」として、時にはウイーンの社交界で人気を博したことも。日本で生まれた二人を含めて七人の子供に恵まれ、多忙な中向上心豊かに英語・ドイツ語はもちろん、法律や簿記、農業経営なども精力的に学びました。

 しかし、1906年結婚14年にして夫のハインリッヒ・クーデンホーフが心臓発作で帰らぬ人となりました。享年47歳。光子は広大な領地の経営と七人の子供の教育という課題に直面。健気な光子は、極東の未開国から来た女性に対する周囲のいじめやねたみを、果ては財産をめぐる裁判をも超克して立派に生きました。日本出国時に明治天皇皇后陛下から賜った「どんな時でも日本人の誇りを忘れないように」との言葉に励まされて。

 しかし平和なときは長く続かず、1914年ボスニアのサラエボでオーストリア皇太子フランツ・フェルディナンド大公夫妻が暗殺されたことを契機として、第一次世界大戦が勃発。オーストリアと日本は国交断絶、敵対国になってしまいました。しかし、光子はそうした状況にもめげず、赤十字に献身的に奉仕して周囲の人たちに好感を持たれました。

 1918年ドイツ・オーストリアが敗戦し、第一次世界大戦は終結。チェコスロバキアはハプスブルグ帝国から独立。クーデンホーフ家では領地の割愛を余儀なくされ、光子はウイーン郊外のメードリングに移住。

 その後、ボヘミア・スデーテン地区はヒトラーによりドイツに編入され、1939年には第二次世界大戦が起こり、この地も戦渦に巻き込まれました。そして6年後、ドイツの敗戦によりロンスベルグ城は再びチェコスロバキア領となり、激動する情勢の中で翻弄されたのです。と同時に、ドイツ系住民に対する殺戮と追放が繰り返され、300万人の住民が国境外へ追われ、その一割は途中で亡くなったとか。

 城を守っていた長男は追放されたものの、幸か不幸か、光子は真珠湾奇襲の数ヶ月前、1941828日にウイーンで67年の波乱の生涯を閉じました。第二次大戦後のボヘミアでの“民族浄化”とロンスベルグ城の荒廃を知らずに─。

 ことほど左様に、ヨーロッパの歴史は、民族の対立と殺戮、民族浄化の戦いの歴史といっても過言ではありますまい。こうした流れの中で、通商の自由化と国境のないヨーロッパを模索する「パン・ヨーロッパ」運動を提唱したのがウイーン大学を卒業した、光子の次男のリヒヤルトでした。

 ヨーロッパは、アメリカの三分の二ほどの土地に28もの国家があり、常に民族対立の火種を抱えたままではいずれまた大戦が起こるだろうと、リヒヤルトは第一次大戦後の1923年に著書『パン・ヨーロッパ』を発表。ヨーロッパの28カ国がアメリカのように一つの「欧州合衆国」を作るべきだと提案したのです。

彼の考えの基本は、西洋思想の特徴である「個・分析」に対して、「調整・統合」という東洋の考え方も取り入れるべきだと主張。そして、その若者の母親が日本人であるということが明らかになると、驚きとともに光子に対して「パン・ヨーロッパの母」という賛辞が送られたともいわれます。

リヒヤルトの生涯かけたこの運動は、のちの「EC」を経て現在の「EU(ヨーロッパ共同体)」として実を結び、着実に発展を遂げつつあります。長い冷戦の間「東欧」世界にくくられていたチェコも今や「EU」の一員に。国境のパスポート・コントロールも以前に比べて簡単に。ただ、通貨の面では未処理のためかユーロはダメでいまだにコルナ。

政治的な国境線は引けても文化の国境線は引けない。ましてや人の心と心の間に国境線は引けません。リヒヤルトが提唱した「国境なきヨーロッパ」は、21世紀になってようやく陽の目を見る状況になってきました。もちろん、統合されたからといって個々の民族や個々の文化が“統一”されるわけではありません。民族それぞれの特徴、それぞれの民族固有の文化は尊重されなければなりません。

いまEUのエリアが順次拡大しつつありますが、こうした考え方や動きがパン・ヨーロッパにとどまらず、パン・アジア、パン・アフリカ、さらにはパン・ワールドへと展開することができれば、世界は一つ、文字通りグローバルな理想的な世界が実現できましょう。

我が国浄土教系の先師たちが重用し、蓮如上人も愛読したと伝えられる書に『安心決定鈔(あんじんけつじょうしょう)』があります。著者不明。本末二巻がありますが、末の巻に「とおく通ずるに、四海みな兄弟なり」というフレーズがあります。これまさに「パン・ワールド」の先駆ではないでしょうか。皮膚の色や髪の色が違おうとも、はたまた眼の色が異なろうともみな兄弟である、とおっしゃっているのです。

親鸞聖人の言行を唯円坊が書き留めたといわれる『歎異抄』の中にも「一切の有情は、みなもって世々生々(せせしょうじょう)の父母兄弟なり」との一節が見受けられます。 合掌

※四海=四方の海→全世界→転じて世界の人々の意(中村元著・佛教語大辞典)


《2006.9.1 住職・本田眞哉・記》


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