法 話

(68)有り難い(下)」

  当たり前と

  思っていたことが

  有り難いと


  気づかされる
  

真宗教団連合『法語カレンダー』(10月)より




有り難い(下)

  
人身(にんじん)受け難(がた)し、いますでに受く。仏法聞き難し、いますでに聞く。この身(み)今生(こんじょう)において度せずんば、さらにいずれの生(しょう)においてかこの身を度せん。大衆(だいしゅう)もろともに、至心に三宝(さんぼう)に帰依し奉るべし。
  自ら仏に帰依し奉る。まさに願わくは衆生とともに、大道を体解(たいげ)して、無上意を発(おこ)さん。
  自ら法に帰依し奉る。まさに願わくは衆生とともに、深く経蔵に入りて、智慧海(ちえうみ)のごとくならん。
  自ら僧に帰依し奉る。まさに願わくは衆生とともに、大衆を統理して、一切無碍(いっさいむげ)ならん。


無上甚深微妙(むじょうじんじんみみょう)の法は、百千万劫(ひゃくせんまんごう)にも遭遇(あいあ)うこと難し。我いま見聞(けんもん)し受持(じゅじ)することを得たり。願わくは如来の真実義を解したてまつらん。
  

 三帰依文を誦することは、自らが仏・法・僧の三宝に帰依しているか否かを、聖教(しょうぎょう)を紐解くとき、学習を始めるとき、あるいは儀式執行に当たって確かめるといった意味合いがあるのかも…。それにも増して、ここで私が注目したいのは、前文の「人身受け難し、いますでに受く。仏法聞き難し、いますでに聞く。」のくだり。

 「人身受け難し、いますでに受く。」とは、人の身としてこの世に生を受けることの難しさを超えて、私がいまここに生存し得ていることの尊さ、有り難さへの謝念と感動の言葉でありましょう。何億分の一かの確率で実を結んだこのいのち。はたまた、犬や猫として生まれていたとしたら、いのちの尊厳はいかに?…。

 そんなことに思いを巡らすと、いまここに私が人のいのちをいただいて存在していること自体「有ること難き」ことであり、九牛の一毛の可能性の上に乗っかっている存在であると感じざるを得ません。この存在、不可思議(人間の頭で考えることができない)なご縁のお陰というほかありません。

 本来は「無・ゼロ」、存在し得ないのが当たり前の存在。その当たり前を打ち破って存在し得ていることは、難きが中のなお難いこと。まさに「有り難い」世界。「有り難い」という日本語は実に素晴らしい言葉だと思います。「有り難う」は、英語の「thank you」や中国語の「謝々」のように何かをしてくれて人に対して言う、単なるお礼の言葉ではないのです。私たちを取り巻くすべてのもののご縁とご恩に対する感動と謝念の言葉なのでしょう。

 「すべての存在は、例外なくご縁によって生まれ、ご縁が欠ければ消えてゆく」というのがお釈迦さまの基本的な教えです。縁起法、因縁法ともいいます。いまこの瞬間瞬間ご縁によって成り立っているのです。私があってご縁をいただくものと考えがちですがそれは間違い。ご縁以外に私はない、私は本来空・ゼロとお教えいただくのです。

すべてのものは因縁和合して仮に存在しているだけであって、本来は空・ゼロ。ゼロが当たり前。ところが私たちの価値観は逆転しています。いま私が存在しているのが当たり前、生きているのが当たり前。昨日から今日への延長線上に明日があると思いこんでいます。口先だけは「世の中、一寸先は闇だ」と言っていますが…。

したがって、明日もいのちがあるのは当たり前と信じています。本来ゼロの教えからすれば、明日の朝目が開かなくても当たり前。朝目覚めたら、本来ゼロの私が存在し得たことに気づいたらまさに「有り難き」幸せなのです。そこにはすべてのご縁・ご恩に対する謝念の意(こころ)が沸いてきて、自ずと「有り難いことです」の言葉が出てきましょう。真の意味の「当たり前」に裏打ちされた「有り難う」を今一度考えてみたいものです。

最後にガンを患って48歳で亡くなられた鈴木章子さんの詩を引用させていただきます。『癌告知の後で』という本に収録された「変換」という詩です。

  死にむかって

  進んでいるのではない

  今をもらって生きているのだ

  今ゼロであって当然の私が

  今生きている

  ひき算から足し算の変換

  誰が教えてくれたのでしょう

  新しい生命

  嬉しくて 踊っています

  “いのち 日々あらたなり”

  うーん わかります


《次号へ続く200610.1 住職・本田眞哉・記》


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