法 話

(7)「宗教の純粋性と寛容性」

  2001年8月27日、黄昏のアンコール・ワットの参道を歩きながら、今回は大変すばらしい踏査研修ができたと歓びをかみしめていました。まず第一に涼しかったこと。スコール直後で気温が下がり、薄曇りで楽な往詣ができました。「カンボジアは乾期がベスト・シーズン、8月は雨期で蒸し暑く大変ですよ」との忠告もあり、またそれが定説ともなっています。32年前、1969年に訪れたときは乾期の1月12日でしたが、その暑かったこと。カンカン照りの参道を延々と歩いたときのあの暑さ、まるで焙烙(ほうろく)の上を歩いているようで汗びっしょり。疲れてしまって説明を聞くのも億劫だったことを思い出します。

 それに引き替え、今回は小パーティーのうえ気象条件にも恵まれてゆったりと意欲的に踏査研修や写真撮影ができ、得るところ大でした。加えて、私にとっては目に見えないといいますか、実地踏査の背後に感じられる部分についての収穫もありました。ただし、この収穫は「答え」を得た収穫ではなく、「問い」を見つけた収穫です。それは何か、結論的にいえば、宗教の「純粋性」と「寛容性」の問題です。

 具体的な事例でいえば、アンコール・ワットはヒンドゥー教の寺院として創建されました。西の塔門の南回廊にはヒンドゥー教のヴィシュヌ神立像が置かれ、ローソクの灯と薫煙
(くんえん)が絶えることがありません。近隣の住民の聖域となっております。これは至極当然のこと。ところが、第三回廊の中心にある中央祠堂には、東南西北の四面に仏陀の立像や涅槃像(ねはんぞう)が安置されています。そしてその前には花が供えられ明かりがともされ、香が焚かれ地元の人々がお参りをしていました。

 今回は行けませんでしたが、前回は「仏足石
(ぶっそくせき)」にもお参りした記憶があります。また、「千体仏」の名が残る回廊もあります。さらに北の聖池の西の境内≠ノは仏教寺院が建っていて、黄衣を身にまとった若い僧が修行に励んでいました。寺院内でも仏教僧を見かけました。してみると、現在のアンコール・ワットは仏教寺院として確実に生きてはたらいているということしょう。

 カンボジア政府観光局のデータによれば、現在のカンボジアの宗教事情は、8割以上が仏教徒(上座部
(じょうざぶ))。その他イスラム、キリスト教等となっており、ヒンドゥー教は出ていません。このことからすれば、アンコール・ワットが仏教化したとしても、さもありなん。一方ヴィシュヌ神を崇めるのも同じ仏教徒と思われる住民。もともとヒンドゥー教の寺院ということでもあるためか、あるいは仏教の寛容性のせいでしょうか。そういえば、日本でもいまだに神仏混淆がありますね。

 一方、目を中東へ転じてみると、過日アフガニスタンのバーミヤンの大仏像をタリバンが予告つきで爆破しました。偶像崇拝を否定するイスラム教の教義の実践なのでしょうか。そしてその背後には宗教の純粋性を貫くイスラム原理主義集団の影が見え隠れします。いずれにしても仏教徒のみならず、世界人類の偉大な文化遺産が一瞬にして失われたことは紛れもない事実です。爆破の瞬間がテレビで報道されたときは愕然としました。残念の極み。参拝の夢ははかなく消えました。

 テレビ報道といえば、9月11日夜「NHKニュース10」のあの生中継=B世界中を震撼させました。私がスイッチ・オンしたのは2機目がタワーに突っ込む直前。ビル火災かなと思った次の瞬間、機影がビルに消えると同時に真っ赤な炎が吹き出しました。何がなんだか分からずただ呆然。キャスターも同様で、かなり混乱していました。その後情報収集が進むにしたがって同時多発テロと分かりビックリ。

 しかも、その背後にはこれまたイスラム原理主義勢力の影がちらつくと続報。イスラム原理主義といえば、西欧化したイスラム社会を、教えの原点に返って本来性を回復しようとする主義・主張。宗教的観点から教えの純粋化とみれば、それはそれで結構な運動だといえましょう。問題はその過激派。ついにアメリカ当局は、テロの主要な容疑者は、そのカリスマ的リーダーでありスポンサーであるオサマ・ビンラディン氏と名指ししてウォンテッド。

 ところで、こうしたテロ行為はイスラム教の純粋化の延長線上にあるのでしょうか。もしそうだとしたならば、テロ行為と宗教行為をどこで峻別したらよいのでしょう。民間機を巡航ミサイル≠ノして、ニューヨークのツインビルやペンタゴンへ乗客もろとも突っ込むなんという前代未聞のテロは、明らかに極悪非道の犯罪行為そのもの。が、宗教色はゼロといえるのでしょうか。世界に10億といわれるイスラム教徒と、ほんの一握りのテロ集団との関係においても同じような問題が懸念されます。

 9月30日付けの『中日新聞』は「テロ犯 イスラム法で死罪を スンニ派最高位が批判」という特派員電を伝える一方、「カイロではホテルのボーイが『観光客が減っても、それには替え難い喜び』とテロ攻撃に溜飲を下げたような表情を見せた。」と報じています。同じイスラム教徒の中でも「派」によるのかも知れませんが、受けとめ方にかなりの温度差があるようです。しかし、その差は信奉する教えの純粋性と寛容性にあるのか、また地図上ではグラデーションなのかまだらなのか、よう分かりません。

 事態は宗教がらみの「事件」から、世界を巻き込んだ「戦争」に発展する様相を呈してきました。アメリカは「見えない敵」に宣戦布告≠し着々と戦闘準備を進めつつ、同盟諸国の支持を取り付けタリバン包囲網を構築しています。一方では、表裏の外交チャンネルを使って容疑者オサマ・ビンラディン氏をあぶり出そうとしています。NATOはもちろん、日本までもが参戦≠フ準備を進めています。

 アメリカが実際に報復攻撃に出た場合、いろいろな問題点が指摘されています。まず第一に、タリバンがかくまっているオサマ・ビンラディン氏とそのテロ組織をピンポイントで攻撃できるかという問題。全土攻撃ともなれば、子どもや女性・老人といった非戦闘員も無差別に殺傷することになるでしょう。もうすでに、爆撃を恐れて国境地帯に何十万人という難民が押し寄せていると伝えられています。テントや食料・衣料・医薬品も不足し、以前にも増して難民問題が膨れ上がっています。また、厳しい自然条件の中での戦闘は長期化も予想されます。長期化した場合、近隣諸国にいろいろな影響が出て、イスラム穏健派にも反米感情が募るかも知れません。

 それよりも何よりも、報復攻撃そのものが事態の根本的な解決になるかどうか疑問です。確かにテロ行為は自由と民主主義の敵、いのちの尊厳を否定する憎むべき卑劣な行為であります。しかしながら、武力による報復が報復を生み、次々と戦争をエスカレートさせてきたことも歴史的事実。非戦・平和の世紀であることを願って迎えた21世紀が、かつてない形の戦争で始まるとは悲嘆の極みであります。折角迎えた21世紀、人類は武力による報復の連鎖を断ち切らねばならないと思います。

 真宗大谷派をはじめ仏教各宗・各山は、米中枢同時テロ事件に関して、武力による報復の自制を求める声明を発表しています。いずれも事件による犠牲者に哀悼の意を表するとともに、暴力による報復がまた暴力を生み、その暴力が新たな悲しみ憎しみを生みだし、報復合戦になることを悲嘆しています。そして、報復攻撃によらず、直ちに国際法廷を組織して、構成かつ厳正な裁判によって法の下の裁きに委ねるべきである、とする声明も。

 いずれも、その基に仏陀釈尊のみ教えがあることはいうまでもありません。釈尊の教えである慈悲と平等、人命尊重の精神、人間の愚かさ等のキーワードが見られます。事件への対応では『発句経』のことばを引用して訴えている声明もあります。「この世においては、怨
(うら)みに報いるに怨みを以てしたならば、ついに怨みの息(や)むことがない。怨みをすててこそ息む。これ永遠の真理なり」。機にあっては寛容性の、法にあっては純粋性の極致を説く経文といえましょう。

 武力攻撃によらず真にテロリズムを克服するには、民族・文化・言語・宗教などさまざまな違いを認めあい、共存できる道を探る以外にないと思います。まさに、わが宗門のテーマ「バラバラでいっしょ ─差異
(ちがい)をみとめる世界の発見─ 」の実践の他ありません。そのためには、異文化や他宗教の相互理解を深め、最も重要なことは「排斥」するのではなく「尊重」することでしょう。『仏説阿弥陀経』には「青色青光 黄色黄光 赤色赤光 白色白光」とあり、それぞれの違いを認め、それぞれがお互いに尊重しあうべきである、とお教えいただくのであります。

 カンボジアから帰国して1か月、予期せぬアメリカの中枢同時テロ事件が惹起し、世界の情勢がめまぐるしく変化する中、私の頭の中も情報に振り回されて整理がつきません。アンコール・ワットで触発された宗教における純粋性と寛容性の課題は、ここへ来て縦軸、横軸が二重三重にからみあい、ますます複雑化し重みを増してきました。ただ、宗教において純粋性をを求める道心がなくなったら堕落しかないということだけは確かです。このことを肝に銘じて、宗教家の端くれとしての人生を歩んでいきたいと思います。 合掌。
                        2001.10.1.本田眞哉・記】


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