法 話

(72)「人になおさるるように」

 何としても、人になおされ候うように、

 心中を持つべし。
(中略)

 下としたる人の、いうことをば、

 必ず用いざれば、腹立するなり。

 あさましきことなり。

 ただ、人になおさるるように、心中を持つべし。


  

『蓮如上人御一代記聞書』より


「人になおさるるように」

 

 昨年来、大企業の不祥事が次から次へとメディアで取り上げられ報道されています。パロマ、不二家、リンナイ、関西TV、東京電力の原子力発電所等々枚挙にいとまがありません。そうそう、名古屋市の地下鉄工事談合のゼネコンも。これらの不祥事に共通する問題点は、内部のコミュニケーション不足とチェック機能の欠如であろうと私は思います。加えて、その根っこには企業の隠ぺい体質があるのではないでしょうか。

 こうした大企業の不祥事は報道で取り上げられて初めて一市民が知ることができるわけで、逆に報道のネタにならなければ隠ぺいされたまま闇に葬られてしまうのでしょう。最近明らかになってきた事案は氷山の一角かも。視聴・読者の方も、直接被害にあった人は別として、一般市民はあまりにもその件数の多さに事件の記憶はいつしか忘却の彼方へ。

 ところが、大企業の、よく言えばガードの固さ、悪く言えば隠ぺい体質といったものを如実に示す事例に私自身が遭遇しました。以下はその体験記。

 一昨年来、自坊のFAXSTLCDという会社宛の文書がたびたび届いています。その会社が当山と同じ東浦町緒川にあり、豊田織機とSONYの合弁会社であることは承知しておりました。液晶パネルを生産しているということも。送られてきた文書の宛先は、STLCD社の製造部統括グループI様。

内容は製品の見積書のようです。中には製品の測定データのようなものも。ページ数は23ページのものから2030ページに及ぶものまで。多い時にはドサッという感じ。もちろん当方のPPC用紙で。

一方、送信元は複数社。しかも同一社から複数回。ということは、たまたま一社がFAX番号をうち間違えたとは考えにくい。考えられるのは、見積もりを依頼する会社へのFAX番号のミス・インフォメーション。STLCD社が当山のFAX番号を誤って発注先に発表したとしか考えられません。でなければ、業種の全く違う当山のFAX番号を知る由もないでしょう。気の毒なのは見積もりを出した会社。今回も落札できなかったのだな、という声が聞こえてきそう。

一昨年、昨年と該社の担当I様に実状をお話ししようと電話したことがあります。しかし、勤務時間中ということでお話しはできませんでした。そこで当方の電話番号を伝えて、手があいたらお電話くださるようお願いしておきました。が、その日もその後も何の音沙汰もありませんでした。

今年になって、また文書が繰り返し送られてきました。またI 様に電話しましたが結果は以前と同様、電話もかかってきませんでした。そこで、業を煮やして125日受信したFAXの現物を携えて会社へ出向き、名刺を出して身分を明らかにした上でI様に面会を求めました。

門衛の受付嬢は現場と連絡を取っている様子でしたが、結局仕事中で会えないという返事。もちろん、アポなしで面会を求めるのは非礼であることは百も承知ですが、前述のように何回電話してもコンタクトが取れない状況では、アポイントメントの取りようがありありません。では、ということで名刺の電話番号へ電話をいただけるよう受付嬢にお願いして帰宅。

その後5日経っても梨のつぶてなので、今度はSTLCD社のHPに掲載されたE-mailアドレスにEメールを送信することにしました。誤送信ファクスの実状と受信ファクス文書のPDFファイル数ページを送信しました。以後10ほど待ちましたが、これもno reply。そして225日手許にあった受信FAXのペーパー20枚ほどを郵送。これまた何の反応もありませんでした。

冗長になってしまって恐縮ですが、以上はありのままの事実であります。以下は私の見解。いろいろ手を尽くしたのだから、一つぐらい反応があってもよいはずなのに。迷惑をかけているのは事実ですから。やはり大企業ともなると、一市民からの声など無視するのが常道・常識なのでしょうか。

はたまた自社の安定のために、社内での過誤は隠ぺいすることを社是としているのでしょうか。「人と環境を大切にし、社会とともに発展する企業をめざす」という経営理念はどこへ行ってしまったのでしょうか。優良企業といわれるSTLCD社なのに、一体どうなっているんだといわれても仕方ありますまい。

今から500年前、本願寺第八代の蓮如上人は次のようにおっしゃっています。

「なんとしてでも、自分の誤りを他の人から直してもらえるよう、心掛けねばならない。(中略)人は、自分よりも目下の者が言うこととなると、きまって用いないのが常であるから、今度はその者が腹を立てる。まったく嘆かわしいかぎりである。他の誰からであれ、自己の過ちを直してもらうよう心掛けることが必要である」(冒頭の聖句の現代語訳)

合掌

2007.3.1 住職・本田眞哉・記》


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