法 話

(74)「いのちは誰のものか」

 いのちは、それを愛そう、

 愛そうとしている者の
 
 ものであって、

 
それを傷つけよう

 傷つけようとしている

 者のものではない

釈尊の『前生譚』より

いのちは誰のものか

 車で外出した今朝のこと。カーラジオからNHKの放送が耳に入ってきました。話題は、食事の前に「いただきます」を言うか言わないか、についてのようでした。番組の途中から聞いたので、前後のつながりがはっきりしませんでしたが、数人のメンバーによるトーク番組が進行中でした。

 司会のアナウンサーが、食前に手を合わせて「いただきます」と言いますかと尋ねたところ、ある人は「やりません」と答え、ある人は「手は合わせませんが、『いただきます』はいつも言います」と答えていました。もう一人の人は、「やる時とやらない時、その時によります」との答え。多少の記憶違いがあるかも知れませんが、おおむねこんなやり取りだったと思います。

 そこで、アナウンサーが「どこかの学校のPTAの会合でこのことが話題になった時、ある母親は、『給食費を払っているのだから、手を合わせてそんなことを言う必要はない』、と発言したということですが…」と口を挟んでいました。ところが、車が目的地に到着して私は車から降りましたので、残念ながらこの話がどう展開したか分からずじまいでした。

 私が驚いたのは、その母親の「給食費を払っているのだから、手を合わせてそんなことを言う必要はない」という発言。かつて「公立学校で給食の時、食前に手を合わせて『いただきます』と言わせるのは、特定の宗教儀式を強制することで認められない」という保護者の強い反対意見があって、その学校では以後この行儀作法を取りやめたということが報道されたことがありました。

 給食費を払っているので云々という考え方は、宗教儀式云々の考え方に勝るとも劣らない的はずれの考え方だと私は思います。なぜならば、「いただきます」と言うのは、単に食事を提供してくれた主、あるいは料理人への感謝を表す言葉ではありません。それにも増して、大自然のあらゆる恵みに対する謝念を表す言葉なのです。そこにはもっと深い本来的な意味があると思います。

 人間存在は根本的な矛盾を抱えています。それは、生きていくためには他の生き物のいのちを奪わなければならないという宿命を背負っているということです。牛や豚や魚のいのちを絶ち、蛋白源と称してその肉を食しています。大根や人参、お米にもいのちがあります。人は自分のいのちを維持するために、そうしたいのちを奪っているのです。他の生き物のいのちを奪わざるを得ない我が身に気づいた時、そこに「痛み」の心が芽ばえるとともに、大自然の恵みに対する感謝の念が発露して「いただきます」と合掌するのです。

 こうした観点からすれば、食前に手を合わせて「いただきます」という行儀作法が一宗一派の宗教儀式に関わるものでもなく、ましてや給食費の支払いと関連づけることなど愚の骨頂でありましょう。

わが東浦町の公立小中学校では、給食開始の直前にリーダーが「手を合わせてください」と呼びかけます。すると全員が声を合わせて「合わせました」と言い、続いて「いただきます」と唱和して箸を取ります。私自身、給食時に同席して試食させていただいたことが数度あり、その時目の当たりにした光景です。子供たちは何の抵抗もなくこの作法を続けておりますし、保護者からも何のクレームも寄せられていません。いのちの教育への取り組みが功を奏しているのでしょう。

  合掌 

2007.4.30 住職・本田眞哉・記》


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