法 話

(75)「ゆれ」

念仏を申すについて、
信心のおもむきをも、
たがいに問答し、
ひとにもいいきかするとき、
ひとのくちをふさぎ、
相論をたたかいかたんがために、
まったくおおせになきことをも、
おおせとのみもうすこと、
あさましく、なげき存知そうろうなり。

『歎異抄』より

 
  

「ゆれ」

 

地元に東浦町立緒川小学校があります。オープン教育のパイオニアとして有名で、全国にその名を馳せています。校舎がオープン方式で建設されたことを受けて、教育内容のでもさまざまなユニークな取り組みが続けられています。その間独自のカリキュラムで、独自の授業方式を開発してきました。

個別化・個性化の教育方針を柱に据えて、主体的学習の実践研究を重ねてきました。文部科学省の前回の指導要領の改訂では、この「緒川方式」が組み込まれ「全国版」に。同校は私の出身校でもあり、熱心な実践研究を誇りに思っています。

そのオープン教育への取り組みが今年30周年を迎えるところから、緒川小学校では「第18回実践研究会 オープン・スクール30周年記念自主研究会」を開催することになりました。併せて、記念式典・記念行事も実施する運びとなりました。

一連の記念事業推進のため「企画委員会」を立ち上げ昨秋来検討を重ねてきました。私もその委員の委嘱を受け、企画検討に携わることになりました。さらに30年前、オープン教育の草創期に同校のPTA会長の職をお預かりしていたこともあって、企画委員のみなさんの要請で委員長のポストを受けることになりました。

今までに3回ほど企画委員会が開催され、実践研究会と関連行事の骨組みがほぼまとまりました。先日の委員会では、全国の小中学校はじめ、各市町の教育委員会や関係者宛に発送する開催案内などについて最終チェックを行いました。

研究主題は、「学び あふれる 学校の創造 ~生きる力を育成する教育課程の構想と実践~」。日程の概要は、2007112日 9:30受付開始 10:0010:45公開学習① 11:0012:00公開学習② 12:4513:25開会行事・全体提案 13:2514:55パネル・ディスカッション 15:1016:30分科会及びミニ講演会。

パネル・ディスカッションのテーマや分科会の標題などのゲラ刷りもチェック。内容の専門的なことは先生にお任せということに。ただ、字句上のことで一つ二つ気になるところがあり、議論というほど大げさなことではありませんが意見交換が行われました。

一つは私が提起した「パネリスト」と「パネラー」の問題。開催案内の表面には「パネリスト及び分科会助言者」と書かれた項があり、文部科学省の部長はじめ大学の教授陣の氏名が連記されています。一方裏面の「日程の概要」欄の「パネル・ディスカッション」の項には「パネラー」「コーディネーター」として同様のメンバーの氏名が記されています。

そこで「パネリスト」か「パネラー」か、ということが問題に。一般的にはどちらも使われていて、どちらも間違いではないようです。ただ、「パネラー」は和製英語、いわゆる“Janglish”。「パネリスト」は純粋の英語。いずれにしても表面と裏面で別々の表記ではまずいので統一しなければ…、ということで「パネリスト」に統一することにしました。

いうまでもなく「パネル・ディスカッション」はれっきとした英語。その見出しの中の表記はやはり純粋な英語「パネリスト」が正解だということになりましょう。ただ、小学館の『カタカナ語の辞典』によりますと、どちらも正しい用語のようです。いわゆる「表記のゆれ」なのでしょうか。

因みに、同辞典の記述を転載すれば以下の通り。
 パネラー(paneler)クイズ番組の解答者。 パネル・ディスカッションなどで問題提起などをする発言者。 () 洋=和製洋語
 パネリスト(英 panelist)パネル・ディスカッションにおける、発表者、討論者。パネラー。 () 英=英語

開催案内文の中でもう一つ指摘された字句の問題が「一人一人」。ある委員が、「一人一人」は「一人ひとり」と表記した方がよいのではないかと質問。私も「一人ひとり」の意見に同調。かつて私が出版した本も「一人ひとり」で統一した覚えです。

ところが、先生方は口をそろえて「今は『一人一人』と表記します」と。帰宅後調べてみましたら、最近は新聞なども「一人一人」の表記が多いようです。三省堂の『現代国語表記辞典』を繰ってみたら、現代表記として「一人ひとり」の記載がありました。どちらも間違いではないということでしょう。これまた「表記のゆれ」の問題。

「ゆれ」といえば、日本の教育の根幹もゆれているようです。去る51日、教育再生会議が第二次報告を決定し、安倍晋三首相に報告書を提出しました。報告の“目玉”は「授業時間数10%増」。他にも重要なポイントがいくつかありますが、ここでは授業時間数の問題に焦点を絞ってみましょう。

授業時間数10%増の発想は「ゆとり教育の見直し」論にそのベースをおいているようです。ではなぜゆとり教育を見直す必要があるのかといえば、ゆとり教育が児童・生徒の学力低下を招いているというのがその論拠。そしてその論点の延長線上に土曜授業の復活があるのです。学校完全週五日制が導入されたのはいつでしたっけ。まだ10も経っていないはず。そして今教育再生会議という、教育現場から遠いところで世論を巻き込んだ議論もなく、土曜授業再開の拙速報告。教育の根幹が「ゆれ」ています。

「ゆとり教育」の見直しもしかり。受験競争に打ち勝つための「詰めこみ教育」の歪みが校内暴力・荒れた学校を生み出したという反省に立って「ゆとり教育」に方向転換したのではなかったでしょうか。ようやく校内が平穏を取り戻したと思ったら、また学力至上主義の「ゆとりのない教育」にゆれ戻し。しかも、そのゆれの周期があまりにも短い。「ゆとり教育」(時間のゆとりのみではないことはいうまでもありませんが)の成果と問題点をじっくり検討し議論したのでしょうか。甚だ疑問。

2007423日付の中日新聞(夕刊)で、内田樹神戸女学院大学教授は、「教育再生会議のボタンの掛け違え」と題して述べておられる次の言葉が印象的でした。

 現在の教育再生にかかわる議論の根本的な「ボタンの掛け違え」は、努力がただちに成果として現れる(現れねばならない)「ビジネス・モデル」に準拠して教育を論じていることにある

 

  合掌 

2007.6.3 住職・本田眞哉・記》


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