法 話

(81)「老少不定(下)

我やさき、人やさき、

きょうともしらず、あすともしらず、

おくれさきだつ人は、

もとのしずく、

すえの露よりもしげしといえり。


大府市S・E氏提供

蓮如上人『白骨の御文』より

老少不定(下)

 

蓮如上人は『白骨の御文』のなかで「老少不定」と述べられています。死を迎える時は年齢順ではない、ということです。人間誰でも長生きしたいと願っています。いくらIT技術が進歩しても自分の終末時計をセットすることはできません。いのちの出発点の誕生日にしても、自分でその日を選んで産声をあげた人はありますまい。

 ことほど左様に、「私のいのち」といいながら私のいのちは、私の思うようにはなりません。私のいのちが私の所有のものならば私の思うようになるはずですが…。しからば私のいのちは一体誰のものか。今から2500年前のお釈迦さま、800年前の親鸞聖人にお尋ねしますと、私の所有のものだと思っている「私のいのち」は、大自然の大きな、大きないのちのほんの一部分をお借りして生かさせていただいているのである、とお教えいただくのです。

 したがって、お与えいただいたいのちを果たせばお浄土へ還らせていただくのです。お浄土へ還りますとお名前が俗名から法名に変わります。法名は生前に受けておくのが本来ですが、ご長男には俗名の文字とも絡めて「釋真悦」という法名をお贈りしました。

 「真」は真実、「悦」は悦び。真実の悦び、本当の悦びの意です。宗祖親鸞聖人は、長い求道の遍歴を経て本願念仏の教えに出会い、これこそが真実の教えだと目覚められました。聖人の著作には「真実信心」「真実報土」「真如」「本願真実」などの文言が各所に見受けられます。現在の宗派名「真宗大谷派」の「真宗」も「真実を宗とする」という意味で、聖人の教えを端的に表したもの。

 では、真実の悦び、本当の悦びとは一体どんな悦びなのでしょう。私たちの日常生活の中の喜びといえば、文字通り喜怒哀楽の中の喜び。可愛いとか嫌いだとか悲しいとか楽しいとかいう価値観での喜び。いわば相対的な喜び。したがって、TPOによって喜怒・哀楽が入れ替わることも度々。損得・愛憎をベースにした喜びも同じ範疇の価値観。相対的なもので、絶対的なものではありません。煩悩を物差しとしていますから、基準自体が伸び縮みしてしまって客観的な物差しにはなりません。

 それに対して真の悦びは、相対性を超えた絶対的な悦びで「法悦」ともいわれます。損得・利害・打算・愛憎・得失を超えた悦び。本願真実の教えに出会って自己の目覚めた時に感得できる悦び。仏智の光に照らされてわが身の実存が明らかになり、今までの価値観の大転換がはかられ、そこにめくるめく明るい世界が開かれるのです。

 ご長男が緩和ケア病棟に入られ3日目に感得された「ここへ来てよかった」という悦びは、まさにこの真の悦び「法悦」ではなかったでしょうか。わが人生の残り少ない時間を見据えてこの悦びを感得するのは並大抵の努力ではありません。否、努力で成し遂げられる自覚ではありません。仏智の光に照らされて価値観の一瞬の転換が成就したとしか考えられません。

 自覚されたのです。自ら覚められたのです。夢から覚めて自己を知る。私たちは絢爛たる理性の文化に彩られた夢の世界にいるのです。自己の根元を忘れて咲いたあだ花を自己と勘違いしているのです。そうした自己を自己性において知るということが大事なことなんです。夢の中にいる自己を覚めて知る、覚知するところに夢の中の価値観が翻って、いかなる実存にあっても真の悦びが感得されるのでしょう。

 そうした大事業が成し遂げられるか否かは、その人その人それぞれの宿縁によりますから、ほんのちょっとしたご縁で目覚めることができる人もあれば、求めに求め学びを重ねても自己に出会えない人もあり、さまざま。しかし、道を求めて聞法し続けることは必要欠くべからざるものであることは間違いないと思います。      

 《2007.11.3 住職・本田眞哉・記》

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