法 話

(84)「真と偽と仮(下)


真の言は

偽に対し、

仮に対するなり。


大府市S・E氏提供

親鸞聖人『教行信証』「信の巻」より

(しん)と偽(ぎ)と仮(け)(下)

 

 

では「仮」とはどういうことかといえば、一般的には「かり」と読み、中間的な意味を持つように解釈されていますが、仏教では「有名無実」「方便」の意味で、真実とも虚偽とも対峙しています。「仮」には深遠な意味あいがありますが、誤解を恐れずに端的に言えば次のようになるかも。「仮」にとどまれば「仮」は「偽」になる性質のものであり、「仮」だと覚知されれば「真」に転入することができる「門」となることができる。いわば「仮」は「真」に目覚めるための否定的媒介といえましょう。

前述の親鸞聖人の著作『教行信証』は、詳しくは『顕浄土真実教行証文類』という総題がついております。そして、内題は「顕浄土真実教文類一」、「顕浄土真実行文類二」、「顕浄土真実信文類三」、「顕浄土真実証文類四」、「顕浄土真仏土文類五」、「顕浄土方便化身土文類六」の六巻。そして、六巻目の化身土の巻は本・末に分かれており、都合七巻で構成されております。

ここで注目したいのは「顕」の文字と「真」の文字。辞書によりますと「顕」は、「あきらかに、あらわす」の意味。したがって、第一巻の標題は「浄土真実の教を明らかにする文言の類従」という意で、その内容を表しています。以下第五巻までは同様に「真実」「真」の文字がつけられ、いずれも「真」を明らかにする内容となっております。

一方、第六巻の標題には「顕」のあとに「方便化身土」の文字が見えます。「方便」は「仮」のことで、また「化」は「仮」に通じるともいわれます。したがって、第六巻は「仮」を明らかにする書と言えましょう。しかも、第六巻の本巻は古来「仮」を明らかにする仮批判の巻であり、末巻は「偽」を明らかにする偽批判の巻といわれてきました。

こうした七巻の構成からすれば、『教行信証』は真・仮・偽の三重批判をその根本体系としているということになります。要するに親鸞聖人は、真実を明らかにするということは、どこまでも仮なるもの、偽なるものに照らして可能であるとされているのです。真実を真実のみで明らかにすることはできない、仮・偽なるものに照らして初めて「真実を顕す」ことができるということです。

話が少々深入りしたようですが、吉兆をはじめとする「偽」の問題も「偽」が明らかになった時点で「真」が問い直され明らかになったということでしょう。ただ問題は、初めから「真」は明らかに実存しているのに意図的に「偽装」した点。宗教的覚醒のプロセスとは逆の展開です。

宗教上の場合においては、「偽」を「偽」と認識できない、換言すれば「偽」を「真」と思い込んでいることが問題なのです。が、私たち凡夫はそうしたことにすら気づいていないのです。にもかかわらず私たちは「真」を求めてさまよい歩いているのが実状です。

そうして、どこまでも「真」を問い求めて歩み続けるわけですが、「偽」なるものを取り払って「真」が見つかるわけではありません。脱「偽」して「真」になるのではないでしょう。むしろ「偽」なるものが明らかになった時、「偽」なるものを否定的媒介として「真」が顕れてくるのでしょう。「偽」批判の中から「顕真」が生まれてくるのです。 合掌

   2008.2.3 住職・本田眞哉・記》

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