法 話

(87)平生業成(へいぜいごうじょう)(上)


親鸞聖人(しんらんしょうにん)

一流にをいては


平生業成(へいぜいごうじょう)

義にして…


大府市S・E氏提供

存覚上人『浄土眞要鈔』より

平生業成(へいぜいごうじょう)(上)

 

中国の四川大地震に関するニュースが新聞・テレビ等で連日報道されています。発生以来2週間余を過ぎて死者数は増える一方。70,000人に垂んとしています。一方行方不明者も1万数千人~2万人いるとかで、私の推測ではその大部分がもう亡くなっているのではないかと思います。最終的には死者数は10万人の大台を超えるのではなかろうか…と。

成都を除いては人口密集の大都会とはいえない地方で、このように多数の死傷者が出たということは、マグニチュードが8を超える桁外れの大きさの地震であったためでしょうか。また一方で、耐震化率の低い中高層の建物の崩壊と山間部の土砂崩れが膨大な数の行方不明者を出した要因となったのではないでしょうか。

小学校や中学校の校舎が倒壊して数多の児童・生徒が瓦礫の下に生き埋めになり未だに救出されない状況が続いています。瓦礫に埋もれた子どもたちは行方不明扱いなっているのでしょう。授業時間中に発生した地震で一瞬のうちに瓦礫の波に飲まれて我が子を失った親の心情はいかばかりか。しかも中国は「ひとりっ子政策」、期待をかけて育ててきた一粒種の愛し子を亡くして親たちは茫然自失。

土砂崩れは山間部の至る所で発生している模様で、テレビ報道では地震発生の前後の衛星写真を比較して解説していますがその差は歴然。崩れた土砂量は膨大で、その土砂が土砂ダムとなって川をせき止め、いくつもの「せき止め湖」ができあがっているとのこと。万一このダムが決壊してせき止め湖の水が一気に流れ出せば下流域に甚大な二次災害を発生させることは火を見るよりも明らか。

こうした四川大地震のニュースを見るにつけ、思い出すのは太平洋戦争末期に当地に発生した二つの大地震。最初は昭和19(1944)年12月7日の「東南海地震」。もう一つは翌昭和20(1945)年、終戦の年の1月13日未明に発生した「三河地震」。いずれもM7~8クラスの巨大地震。両地震とも甚大な被害をもたらしましたが、当時は軍による報道管制が敷かれ、ほとんど新聞・ラジオで報道されませんでした。したがって、記録写真も史料も少なく、今なお被害状況の詳細は不明のままのようです。

昭和19(1944)年12月7日、確か水曜日だったかと思いますが、小学校2年生だった私は、午前中の授業を終えて帰宅していました。昼食をとり、日当たりのよい居間で机の前に座っていました。宿題でも始めようとしていたのでしょう。午後1時半ごろのこと。と、突然コトコトコトと震動が来たのに続いてグラグラグラと大きな揺れ。

側にいた母が「地震だ」と叫ぶと同時に玄関に向かって走り出しました。玄関まで来ると、2本のガラス戸が9尺間口の両方の柱に弾かれてピシャリピシャリと交互にレールの上を走っていました。私と母はその間をかろうじてすり抜けて外へ。玄関から数メートルのところにある、高さ2メートル余の石灯籠の脇を走り抜けて竹藪を目指して一目散に走ったつもり…、でしたが走れませんでした。実際には地べたを這うように、転がるように。

揺れが収まって振り返ると、あの石灯籠が倒れて火袋が無惨に砕けているじゃありませんか。もし3秒か5秒走り抜けるのが遅かったら、私は石灯籠の下敷きになって7歳で短い生涯を終わっていたことでしょう。今思い出しても身震いがします。

少し落ち着いた私の耳に「ギーギー」と何かがきしむ音が聞こえてきました。音の出ている方へ目をやると、本堂の大屋根の軒先が左右に1メートルほど揺れていたのです。地震が収まってからも1~2分間大屋根は揺れ続け、今にも倒れるのではないかとヒヤヒヤ。今でもその状況が鮮明に思い出されます。

好奇心の赴くままに町へ出てみてビックリ。2階建ての酒屋さんは1階がつぶれて2階部分がその上に居座った感じ。飛行機部品を製造していた工場は倒壊して、瓦屋根の部分が大蛇のようにうねって幾筋も横たわっていた光景が私のまぶたに焼き付いています。

砂利道の県道(現在は国道)の中央には、セイター・ラインのように幅10㎝~50㎝の地割れが走っていました。もしここに立っていた時に地震に遭ったら、足どころか身体全体が割れ目に飲み込まれてしまうでしょう。

でも、発生の時間帯がよかったのか近隣を含めて火災の発生がなかったと記憶しています。関東大震災のような事態に至らず、不幸中の幸い。火を使う食事時からかなりの時間を経ていたことと、当地ではプロパンガスはもちろん都市ガスも無かったことが逆に幸いしたのでしょう。また、電気設備も一戸に数灯の電灯とラジオが1台ある程度で、冷蔵庫はもちろん洗濯機もテレビも無い時代、漏電による火災発生もありませんでした。

さて、家へ帰ってみると倒壊した建物は無かったものの、ガラスが割れたり、屋根瓦がずり落ちたり、壁に亀裂が入ったりして被害甚大。最大の問題は、本堂も庫裡も建物全体が傾いたりねじれたりしてしまったこと。障子や襖の建て付けが極端に悪化して、柱との間に最大で5~6㎝の長三角形の隙間ができてしまいまい、寒風が容赦なく侵入。                                      合掌

   《2008.5.30 住職・本田眞哉・記》

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