法 話

(93)報恩講(ほうおんこう)


   (それがし)親鸞(しんらん)

  閉眼(へいがん)せば


   加茂川(かもがわ)に入れて

   魚にあたうべし
   

大府市S・E氏提供

覚如上人作『改邪鈔(かいじゃしょう)』より

 

報恩講(ほうおんこう)

 

 当山了願寺では、毎年124日~5日と「報恩講」を勤修します。報恩講とは、文字通り「恩」徳に「報」いる「講」習会という年間最大の法要です。誰の恩に報いるかといえば、浄土真宗の開祖・親鸞聖人の恩独に報いる仏事です。

 親鸞聖人は平安時代も終わりに近い1173(平安3)年、藤原氏の一末流である日野家の嫡男として誕生。聖人が生まれた時代は、保元・平治の乱のあと、平氏一門の権勢が絶頂期の時期。その後源氏が台頭し平氏が滅び、鎌倉幕府が創設されるという、一層乱世の色の濃い時代に入っていきます。

 そうしたなか、聖人は9歳の春(1181年)、のちの天台座主・慈円僧正のもとで得度・出家。修学・修行したところは比叡山延暦寺。比叡山延暦寺は伝教大師最澄が開創した学仏道場。聖人の時代は伝教大師が世を去ってすでに300年を過ぎていましたが、「上求菩提・下化衆生」という大乗仏教の高邁な理想を掲げて道心豊かな仏者を養成する根本道場としてその存在を誇示していました。今流に言えば、国立最高学府と国立国会図書館を複合化したもの、否、それ以上の内容と権威を誇る学問修業の最高教育機関でありました。

 ところが、内実は大師の高い理想とは裏腹に、祈祷万能の仏教に変質していたのです。そこで修せられた仏道の行は、あるいは国家の、あるいは貴族の現世の福利をもっぱら祈るための行に変質していたのです。国体の安穏や貴族たちの即物的な幸福や利益を実現しようとするための高級祈祷所に成り下がっていたのです。聖人が「外儀は仏教の姿のすがたにて、内心外道を帰敬せり」と悲嘆したとおり、仏教の形は保っていながら、実質は外道に転落していたのです。

 一方、比叡山は全国に膨大な荘園を持ち、貴族からの上納金も多く財政も豊かの上、僧兵をも擁する一大権力集団でもありました。後白河法皇が言ったあの有名な言葉が端的にその事を表しています。「朕が意のままにならぬもの、双六の賽、加茂の水、山法師」。

 山内の常行三昧堂で「生死出づべき道」を求めて、ひたむきに修行に励む聖人にとって、比叡山の退廃・俗化ぶりは当然影を落としていたことでしょう。聖人が命を懸けて取り組んでいた修学・修行は内なる煩悩にうち勝って仏の悟りを身に証せという「断悪証理」の道でした。煩悩を克服して真理を悟れという、それは確かに道理。しかし、現実に生身を持って生きているものにとっては、それは自分の力で自分の身体を天に向かって持ち上げようとするにも似た行為ではないかと感じ、聖人は深い戸惑いと悶えの中へ沈んでいったのです。

ひたむきに修行すればするほど晴れぬ暗闇が心の底にわだかまって、どうすることもできなかったのです。後に存覚上人は『歎徳文』に「定水凝らすといえども、識浪しきりに動き、心月を観ずといえども、妄雲なお覆う」と記しています。結局、聖人が比叡山で青春を懸けた修学・修行の結果学び取ることができたのは、「断悪証理」の道でなく、久遠の凡夫としての自己の発見だったのです。煩悩にまみれて生きる以外に生きる道のない凡夫以外の何ものでもない自己を思い知らされる20年であったのです。

 そして29歳の春のころ、重い悶えと容易に解けない惑いをいだいて比叡山を下り、洛中頂法寺の六角堂に百日の参籠に入りました。百日の参籠も終わりに近づいた95日目の暁、聖徳太子の言葉を繰り返し思い出し、たずね続ける聖人の夢の中で観音菩薩の悲願として往生浄土の道を尋ねよとの示唆を得ました。

 それは、聖人より先に比叡山を降りて吉水の地で「ただ念仏して」の教えを説いていた法然上人を訪ねることでした。東山吉水の草案で法然上人に出会い聖人の語りかけを聞いた時、親鸞聖人は長い間苦しんだ暗闇が晴れて大きな精神の夜明けを迎えることができたのです。法然上人は「智慧第一の法然坊」と高い尊敬を受けながらも、自分自身は「十悪の法然坊」「愚痴の法然坊」と告白しています。法然(源空)上人の説く教えは、「往生之業、念仏為本」が旗印で、ただ一筋に念仏することによって善悪貴賤の隔てなく助かるという明快な教え。

 すでに久遠の凡夫に目覚めた親鸞聖人には、愚者になってただ一向に念仏せよと勧めてやまない法然上人の語りかけは、よくうなずけたことでしょう。聖人は自分の助かる道はこれだ、と直観し感涙にむせんだといわれます。親鸞聖人は法然上人との出会いによって、無限に明るい光のさす世界の中に自分を見出すことができ、新しいいのちに甦ることができたのです。1201(建仁元)年、聖人29歳の時でした。

 『歎異抄』には、「親鸞におきては、ただ念仏して弥陀に助けられまいらすべしと、よきひとのおおせをかぶりて、信ずるほかにべつの子細なきなり」と記されています(注:よきひと=法然上人)。また、聖人のライフ・ワークである『教行信証』には、「然るに愚禿釋の鸞、建仁辛の暦、雑行を棄てて本願に帰す」と自ら表白しています。

 かくして聖人は、求道の長い闇の苦しみから解放され、真実の教えに遇うことができました。そして、そうしたものだけが知る真の喜びを得、充足感に浸ることができました。身に余る大きな真実を賜った感動に全身うちふるえつつ、法然上人もとでさらなる勉学に励みました。

 ところが、「ただ念仏」の信火が、法然上人の類い希な学識の深さと人格の円満さとが相まって、燎原の火のごとく全国に弘まって行きました。そのために伝統教団に大きなショックを与えるとともに怒りを買うことに。ついに伝統教団を代表する南都・興福寺と北嶺・延暦寺が、法然上人の吉水教団に対して迫害と弾圧を加える事態が惹起しました。その最たるものが承元の法難。12072月、朝廷より「専修念仏禁止」の宣旨が下り、法然上人およびその門下の数人が、あるいは死罪、あるいは流罪に処せられました。その中で法然上人は土佐の国へ流罪、親鸞聖人は越後の国へ流罪。聖人35歳の時でした。

 このことについて聖人は『教行信証・後序』の中で「主上臣下、法に背き義に違し、忿(いかり)をなし、怨みを結ぶ。これによりて真宗興隆の大祖源空法師、ならびに門徒数輩、罪科を考えず、みだりがわしく死罪につみす。あるいは僧儀を改めて姓名を賜うて、遠流に処す。予はそのひとりなり」と述べています。

 還俗させられた親鸞聖人は、藤井善信の俗名で雪深い越後の配所で6年間流人として孤独で単調な日々を送ったことでしょう。流刑に際して聖人は国家の名において「僧に非ず」との宣告を受けました。しかし、聖人は国家権力によって非僧の宣告を受けたとしても何の意味もないとして、自ら「僧に非ず俗に非ず」と宣言して「愚禿」と名のりました。「愚禿釋の鸞」との名のりのもと、非僧非俗、肉食妻帯の生活を実践し、力強く配所で生き抜いたのです。愚禿の名のりは、聖人における真の自己の確立と生きるべき世界の発見とを告げるものでした。

 1211(建暦2)年、聖人39歳の時、法然上人とともに罪を赦されました。赦免後間もなく師法然上人の訃報に接したためか、師不在の都に帰ることをせず、関東の地に赴くことに。以後、関東の辺境の地でいなかの人々を同朋として「ただ念仏」の信心の日暮らしをしました。自信教人信のまことを尽くして情熱的に強化の実践活動を展開しました。そして、本願念仏の共同体ともいうべき関東同朋教団が形成されたのです。

 60歳を過ぎたころ、聖人は関東の人々に別れを告げ帰洛。なぜ帰洛したのかについては諸説あるようですが、大方の見方は著作活動のためではなかろうかということです。関東時代から暖めてきた『教行信証』の著作プロジェクトの仕上げが帰洛の目的ではなかったでしょうか。ライフ・ワークを完成させるために後ろ髪を引かれる思いで、関東教団との決別を決断せざるを得なかったのではなかろうかと思われます。

 ひたむきに著作に専念し、何度も何度も推敲を重ね『教行信証』は完成。その他にも数々の著作に取り組み、鍛えられ磨かれた信心の自覚と、独特な筆致で表現した珠玉の数々を私たちに残して下さっています。「今は目も見えずそうろう」と言いながらも、88歳の高齢に至っても筆を執って止まなかったといわれます。

 1262(弘長2)年1128日、聖人は90賽の生涯を閉じ、浄土へお還りになりました。本山・東本願寺では、毎年1128日をご満座として7日間「報恩講」が勤修されます。

蛇足ながら『改邪鈔』には「某親鸞閉眼せば、加茂川に入れて魚にあたうべし」。

合掌

 《2008.12.3 住職・本田眞哉・記》

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