法 話

(97)「真宗の仏事(中)

(それがし)、親鸞(しんらん)

閉眼せば

賀茂川にいれて

魚にあたふべし。
  

大府市S・E氏提供

覚如上人『改邪鈔(かいじゃしょう)より

 

 

 《前号より続く》葬儀そのものの式次第・作法についても宗派により相異があります。また、同じ宗派でも地域により多少差があります。まず、真宗大谷派における一般的な葬儀式の次第順序を簡単に記してみましょう。

 式場の荘厳等が整い、親族・参列者が着席し定刻になったところで導師・役僧が入場。最初に「棺前勤行(かんぜんごんぎょう)」をお勤めして、導師・役僧転座。開式の言葉があって「葬場勤行(そうじょうごんぎょう)」開始。まず導師が尊前に進み出て焼香・表白。導師復座して「正信偈(しょうしんげ)」のお勤めが始まります。「五劫思惟之摂受(ごこうしゆいししょうじゅ)」の調声のあと親族の焼香開始。続いて一般焼香。葬場勤行終了後荘厳の一部を改める間に「弔電披露」。その後「灰葬勤行(はいそうごんぎょう)」をお勤めして式次第終了。喪主あいさつのあと火葬場へ向けて出棺。

 というような流れで現今葬儀式は運ばれます。太平洋戦争終戦前は、自宅で棺前勤行をお勤めしたあと葬列を組んで葬場へ。葬場は野天で、文字通り葬場勤行を勤修。そのあと埋葬するか荼毘に付すか、いずれかの形で葬送の儀は締めくくられました。しかし、戦況悪化に伴い葬送の行列が禁止され、自宅などで「告別式」方式で葬式を営むようになりました。この告別式方式はその後定着し現在も踏襲されています。

 葬儀といえば「迷信」「俗信」が付きもの。文明社会、IT社会といわれる今日でも、人の心を惑わす迷信がまだまだはびこっています。地域差はあるものの、「友引」には葬式を行わない、納棺の時に死装束を着ける、守り刀を棺の上に置く、飯茶碗にご飯を山盛りにして箸を立てる、出棺時に茶碗を割る、火葬場から帰ったら塩で清める…etc

 どれもこれも真宗では、親鸞聖人の教えに照らして根拠のない迷信として否定されます。「友引」は暦注の中の「六輝」の一つ。したがって友引の日は原則6日を1周期として巡ってきます。友引は、もともと相引きで勝負が無いという意味。いつの間にか死者が友を引くという意味づけが行われ、この日に葬式を営むことを忌む俗信が生まれたのです。科学的な根拠は何もありません。にもかかわらず、自治体が営む火葬場が友引の日を休日にしています。ただ、最近は友引の日の休日を取りやめる自治体も出てきました。

 それから守り刀を棺の上に置く風習、これは現在も踏襲されているようです。仰々しく房が付いた金襴の袋に収められた刀と思しきものが棺の上に置かれているのを見受けます。どんな意味があるのかさっぱり分かりません。が、推測するところでは、冥土の旅の途中で「群族悪獣(ぐんぞくあくじゅう)」が襲ってきた時に我が身を守るための刀なのかも…。いずれにしても真宗の葬儀では無用のもの。真宗の教えでは、阿弥陀如来の本願力によってすでに浄土に往生しているわけですから、そもそも冥土の旅はありません。したがって、白木綿でできた「手甲」「脚絆」「頭陀袋」や紙でできた「六文銭」といった死装束も必要ありません。

 ご飯を茶碗に山盛りにして、そこに箸を立てて葬式の祭壇に供える習俗、少なくなったとはいえ現在も続いているようです。当地では「餓鬼飯(がきめし)」とも呼ぶこの盛り飯、その名のとおり餓鬼に施す飯の意味を持っているとか。冥土の旅の途中で餓鬼道に落ちて飢えている亡者を助けようとお供えするのでしょうか。真宗の教えでは、前述のように即得往生ですから、餓鬼道に落ちることはありません。したがって、ご飯はお供えするならば、山盛り飯に箸を立てるのではなく、お仏壇にお供えする「お仏供(おぶく)」と同じ方式でお供えすればよろしいでしょう。

 そうそう、「往生(おうじょう)」についてここで少し触れておきましょう。この言葉は大変奥深い意味を持っており、わが真宗においては重要な法語です。ところが最近マスコミなどでは、この語が本来の意味とかけ離れた意味で使われています。例えば、「電車が立ち往生した」とか、当地の方言では「往生こいた」とか…。これは、行き詰まったとか、参ったとか、いずれもネガティブな意味で使われています。ところが、本来の意味はポジティブな意味の言葉なのです。「往」は行く「生」は生まれる。往きて生まれる。お浄土・阿弥陀如来の仏国土へ往きて仏に生まれる、という意味で非常にめでたい言葉なのです。

 話を葬式に関わる迷信・俗信に戻しまして、次は清め塩のこと。以前、自宅で葬儀が行われたころのこと。火葬場からお骨を持ち帰った喪主が、玄関先で「おーい、塩を持ってきてくれ!」と叫んでいる光景をよく目にしました。葬儀が葬儀会館などで行われるようになったこのごろでは、会館の玄関外に紙の袋に入った塩が用意されています。何のためかといえば、自分に付いた死人のケガレを清めるためだという。なるほど、その小袋には「清め塩」と書かれています。

 これまた真宗の教えからはかけ離れた習俗。第一、亡くなった人がなぜケガレているのでしょう。死んでケガレるならば死ななきゃいいでしょう、と私は申し上げています。もちろんそんなことは不可能。人間、生まれたからには必ず一度は死にます。前述のように亡くなった人はもうすでに浄土に往生され仏になっていらっしゃいます。ケガレているのはむしろ私の方ではないでしょうか。三毒の煩悩に汚されて…。一方、仏になられたお骨にはもはや煩悩はなく、800℃以上の高温で焼かれ病原菌も無く、衛生的にもこれほどきれいなものはありますまい。

  合掌

《次号へ続く:2009.4.2 住職・本田眞哉・記》

  
 

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