●レビュー「夏の研修シリーズ」
アジア文化交流センター夏の研修シリーズ「ヨーロッパに“アジア”を訪ねる旅」は回を重ねて今年・2009年は4回目、第四弾を実施しました。テーマは「杉原千畝氏『6000人の命のビザ』ゆかりのバルト三国とサンクト・ペテルブルグを訪ねて」。
時計の針を逆に回して2005年、シリーズ第一弾はどんな企画だったかといえば、「クーデンホーフ・光子ゆかりの地を巡って」。光子の夫ハインリッヒ・クーデンホーフは1859年ウィーンで誕生。オーストリアの外交官として世界各国の大使・公使を歴任。伯爵。日本へ赴任したのは1892(明治25)年。一方、青山光子は1874(明治7)年骨董屋青山喜八の三女として東京で出生。ある冬の日、クーデンホーフ伯の馬が路上の氷で足を滑らせ転倒。投げ出された彼を目撃した光子は店から飛び出し医者を呼んだとのこと。これがご縁となって二人は結ばれました。
ご夫妻がヨーロッパに帰って居城としたのがチェコに現存するこのロンスベルグ城。「アジア文化交流センター06夏の研修」の旅の準備段階からお世話になったウィーン在住のシュミット・村木眞寿美さんと現地で合流。村木眞寿美さんから、お城の修復支援活動に携わった経緯や、クーデンホーフ・光子の数奇な生涯についてお城近くのフベルトス・ホテルで1時間弱にわたってレクチャをしていただきました。
昼食を摂ったあと歩いて2~3分でロンスベルク城に到着。お城では地元のジハ町長がお出迎え。歓迎のあいさつを受けた後、プレゼントを交換し親善交流。修復半ばの城内を見学。完全修復に至っていない状況を目の当たりにして心が痛みました。私の友人の成田氏などが相当額の寄進をしたと仄聞してはいましたが…。後ろ髪を引かれる思いでお城を離れ、300~400mほどありましたでしょうか移動してハインリッヒ・クーデンホーフ伯のお墓を訪問参拝。
ところが、クーデンホーフ・光子は、夫の死後戦火に翻弄されたこともあって別のお墓に眠っているのです。彼女はウィーンのお墓に葬られています。もちろん私たちはそのお墓にもお参りしました。ヨハン・シュトラウスやモーツアルトが眠るウィーン中央墓地に彼女の墓はありました。クーデンホーフ家の十字架の墓の前で30名の旅行団の中の4名の僧侶団員が袈裟・衣を着けて読経しました。この光景を見た現地の人々はさぞかし奇異に感じたことでしょう。
●シリーズ第二弾は古伊万里との出会い
リーズ第二弾は「ドレスデンで古伊万里と出会い、ポツダムを訪れて日本との接点を学ぶ」という企画。2007年に実施。ドレスデンで古伊万里を鑑賞した後、日本が受諾して太平洋戦争が終結したあの「ポツダム宣言」発祥の地ポツダムを訪れました。ツェツィーリエンホーフ宮殿には、列国の首脳が集まって催されたポツダム会談の一室がそのまま?の姿で保存・展示されていました。まさに日本の行方の命運を決めたテーブルと椅子を目前にして感無量。
ドレスデンのツィンガー宮殿には日本から渡った膨大な量の古伊万里に出会いました。陶磁美術館は、時計の門の左右両ウィングの円弧状の回廊の中。天井も円弧を描いており優しさと暖かさを感じる館内。展示方法がこれまたユニーク。上部が円弧状になっている壁面に磁器を貼り付けるという方式。その配列も放射状あり、縦列あり、ランダムありでさまざま。その壁面の前の床や低い台に壺や鉢や瓶が無造作に?おかれています。
こういった陳列方式はフランスのルイ14世が元祖とか。磁器が本来の実用法からかけ離れて、後期バロック・ロココ様式の宮殿内装飾として使われたのです。宴会の間の扉の上とか、部屋の隅に磁器を並べて置くとか…。いかにヨーロッパで日本の伊万里焼が珍重されていたかを物語っていました。
加えて印象的だったのは、ベルリンのブランデンブルグ門近くに設けられた「石碑原」。高さ150㎝、長さ200~300㎝、厚さ50㎝ほどの石碑が何百基、否、千基超も林立して壮観。私は勝手に沖縄の「平和の礎(いしじ)」になぞらえて「ベルリンの礎(いしじ)」と呼びましたが、その趣旨は「虐殺されたヨーロッパのユダヤ人の為の記念碑」とのこと。胸にジーンと来るものがありました。
●第三弾はパリで日本の古民家を見
シリーズ第三弾は昨年実施。テーマは「パリの中心地で日本の古民家と出会い、ベルギー・オランダの文化遺産を訪ねて」。安曇野の著名な建築家・降幡廣信先生が、日本の古民家をフランスはパリのシャイヨー宮博物館に移築展示したという情報を得たのがこの企画の発端。降幡廣信先生とは、私の自坊・了願寺の庫裡の改築再生の設計監理をお願いしたことでご縁が結ばれました。先生は築250年の庫裡を解体し、実に使い勝手のよい、住みやすい家に再生してくださいました。
降幡先生からアポイントメントを取っていただいていた、ジャーヌ・コビー女史とは博物館ロビーでお会いすることができました。彼女の流ちょうな日本語に圧倒されながら、アドミッション・フリーのご厚意を得て展示場へ入場。
シャイヨー宮の広い一室には、木曽・開田高原の古民家が見事に移築されていました。いろりや煤けて黒光りする板戸、壁に貼られた民俗信仰の「お札」もそのままに。そうそう、しめ縄も見受けられました。日本文化人類学研究の第一人者であるジャーヌ・コビー女史からは、移築工事が始まった2007年の初めからの経過等について解説していただきました。
シャイヨー宮の博物館は1937年開催のパリ万博のパビリオン。そこに移築された日本の古民家。そして窓からは1889第4回万博に建てられたエッフェル塔の勇姿。時代の縦の流れと、グローバルな地域の横の広がりが織りなす雰囲気に、しばし自分の実存を忘れていたことを思い出します。
そのあと訪れたオランダのブルージュの町の印象はまた格別でした。中でも圧巻は運河のクルージング。乗船定員は30名ほどでしょうか、私たちのパーティーの中へ欧米人が混乗。運河は広いところもあり狭いところもあり、時には対向船待ちありで、船は緩急自在に航行。船の中からの視線ではほとんど見上げる形となり、まさに言われるとことの「屋根のない博物館」そのものでした。
以上「ヨーロッパに“アジア”訪ねる旅」シリーズの第一弾から第三弾までレビューしてみましたが、今年はその第四弾「杉原千畝氏『6000人の命のビザ』ゆかりのバルト三国とサンクト・ペテルブルグを訪ねて」。以下はその旅の中で感動・感銘・感激したことを中心に綴った紀行文。ご一読あれ──。
《次号へ続く/2009.9.2 本田眞哉・記》