研修紀行 Ⅹ

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アジア文化交流センター09夏の研修 ──

 
ヨーロッパに“アジア”を訪ねる旅 Part Ⅳ

  
杉原千畝氏「6000人の命のビザ」ゆかりのバルト三国と
   

              サンクト・ペテルブルグを訪ねて⑤
    
  

●強烈な印象の第9要塞

この巨大なモニュメントはコンクリートでできていると思われます。一見グロテスクに見えますが、力強さと巨大なベクトルを表している造形物。今までに経験したことのない迫力を感じます。形はといえば、木の根っこを斜めに逆立ちさせたようなフォルムといえばよろしいか。「三つの部分で形成されていて、向かって右は殺された人、左は戦っている人、真ん中は平和」とガイド嬢は解説。

ところが他の資料で調べてみましたら、右は「死」を左は「蘇り」を、そして中央は「希望」を表す、という説も。さらに、3本の柱は「過去・現在・未来」を表しているとおっしゃるムキも。また、3本の作品のそれぞれに人の顔が彫られていると解説した記事もありましたが、言われてみればそうかなと思える部分もありますが、どうも私にははっきりと読みとれません。ロールシャッハ・テストを受けているような気がして…。いずれにしてもユニークなモニュメント。

そもそも第9要塞とは何か。19世紀の終わりごろ、当時のロシアの皇帝が西側に対する防衛のために建てた第9番目の要塞。第一次大戦ではドイツにあっさり占領され、第二次大戦中ナチスの支配下にあった時には、ユダヤ人の強制収容所として利用したとのこと。リトアニアのみならずフランス、ドイツなどからもユダヤ人が狩り集められ、1941年から1944年までの間に5万人が虐殺されたといわれます。その中の3万人はユダヤ人、2万人は共産党員だったとのこと。

こうした事実がヘブライ語、ドイツ語、英語などで黒御影石の銘板に彫られていました。また、「THE WAY OF DEATH」の刻銘も。さらに歩を進めると、博物館とフィールドの間にある堀割の擁壁には無数の弾痕がビッシリ。その壁に付けられたプレートには「THERE NEAR THIS WALL NAZIS SHOT AND BURNED PEOPLE IN 1943-1944」(1943年から1944年にかけて、ナチスがこの壁の前で人々を銃殺し消却した)と書かれていました。

収容所を象徴する見張り塔と赤煉瓦の高塀の沿って進むと、塀を切り欠いて作られた小さな入り口。赤煉瓦に着けられた小さなプレートには「Ⅸ FORT MUZIEJUS」(第9要塞博物館)と書かれていました。

中に入ると何とも暗い雰囲気。カンボジアでかつて見たと同じように、殺された人々のおびただしい数の顔写真が壁に掲げられていました。廊下との間に頑丈な鉄格子が作られ、その中は小さな窓が開いた陰気な雰囲気の部屋。そこには薄汚れたベッドが並べられていました。その他にも小部屋(CELL)がたくさんあり、そこには死屍累々の写真なども展示されていましたが、生理的にむごたらしい状景を嫌うのか、いま具体的な場面を思い起こすことができません。ただ漠然と収容所の苛酷な状況を感じて恐怖心を抱くのみ。

●第9要塞強制収容所大脱走物語

ただ、杉原千畝氏の業績が展示されていたことははっきりと覚えています。そして、もう一つ印象に残っている具体的なストーリーがあります。それは強制収容されたユダヤ人の脱走物語。1943年12月25日のこと。結局は殺されると分かったユダヤ人64人は、収容所からの脱走を企てました。隠し持っていたハンド・ドリルで鉄製のドアに穴をあける作業が始まりました。錐は3ミリ、ドアの鉄板の厚さは6ミリ。人がくぐり抜ける広さの穴をドアにあけるには、少なくともドリルで350個の穴をあけなければなりません。しかも穴あけ時に音が出ます。

見張りを立てて慎重に作業を進め、直径3ミリの穴が300ほどに達した時、折しもクリスマス。ドイツ人将校たちがクリスマスのパーティーに浮かれているすきをついて64人のユダヤ人が二手に分かれて脱走。一方は、森の中に隠れているパルチザンに合流しようと森へ逃げ込みました。もう一つのグループは、カウナスのユダヤ人ゲットーへ助けを求めました。結果的には、森へ逃げたグループは道に迷い最終的にはナチスの追っ手に捕まりほとんどが殺されました。片やゲットーに逃れた一団は生き延びることができたとのこと。

生き延びることができたユダヤ人の中の一人がAlex Faitelson という人。彼は脱走時の様子や、収容所の日常生活の真実を書物に著しています。英語版の書名は『THE ESCAPE from the Ⅸ fort』。体裁はA5判変形170ページ。まだ拾い読みしかしていませんが、“死のキャンプ”第9要塞強制収容所の苛酷な状況が読みとれます。前述の脱走計画のことや、鉄扉に穴をあける時に使ったハンド・ドリルの写真も載っています。

 薄暗い重い気持ちのまま強制収容所を出ると、何と外は太陽がサンサンと照りつけていました。この落差を解消するにはしばし時間を要しました。団員一人ひとりも気持ちの整理をしているのか無言でバスに乗り込みました。バスは第9要塞を後にして、今回の研修のメイン目的地カウナスは杉原記念館に向けてひた走ります。




《次号へ続く/2009.9.4 本田眞哉・記》


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