研修紀行 Ⅹ

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アジア文化交流センター09夏の研修 ──

 
ヨーロッパに“アジア”を訪ねる旅 Part Ⅳ

  
杉原千畝氏「6000人の命のビザ」ゆかりのバルト三国と
   

              サンクト・ペテルブルグを訪ねて⑥
    
  

●いよいよ杉原記念館訪問

30分ほど走ったでしょうか、車窓から街路灯の鉄柱に付けられた「杉原記念館 100m」と書かれた小さな看板が見えました。さぁ到着したぞ、といささか興奮気味。杉原記念館・元日本領事館は一般の住宅地の中にあります。したがってアプローチの道路も非常に狭い。私たちのバスも大型というほどでもありませんでしたが、トラックが一台停車していて前へ進めません。トラックを他へ移動していただき、ようやく通れました。

杉原記念館はごく普通の一戸建ての住宅。気を付けていないと通り過ぎてしまいます。軒下の右端の外壁に書かれた住宅番号「30」と同じく左端に掲げられた「杉原記念館・入り口」の小さな看板、そして門柱に掲げられた「希望の門 命のヴィザ」の切り抜き文字があるステンレス看板がポイント。聞くところによればこの住宅、かつては文部大臣の邸宅だったとか。記念館の入り口は、正面玄関ではなく、向かって左側の緩やかな坂を下ったところにありました。

入館するとすぐにビデオが上映されました。冒頭画面に「葦のようにしなやかに」が映し出されました。続いて「木のように堅くなるな」のフレーズが画面に浮かび上がります。ナレーションは「これはイスラエルのことわざの一節である。日本のことわざで言えば『柔よく剛を制す』である。それはまさに杉原千畝の生き方そのものであった」と解説していました。そしてその後に「正義の人 杉原千畝」のメイン・タイトル。

続いてカウナスで暮らす千畝氏家族の平和な姿、今から60年以上前の様子が映写されました。子どもさんの無邪気な振る舞いから公務に至るまで、おそらく16㎜フィルムでしょうが動画で収録されていました。もちろんモノクロームでしたが、あの年代でホーム・ムービーを撮ること自体なかなかできないことですし、“敗残兵”のような形でロシア経由の帰国という苛酷な状況の中、よくもフィルムを持ち帰れたものだと感心せざるを得ません。

さて、ビデオ画面は進み1940(昭和15)年7月18日早朝、ユダヤ人がビザ発給を求めて、領事館のフェンス越しに手にした書類を振りかざす場面へ。続いて本国政府の訓令に反してビザを発給すべきか否か、心の葛藤に悩む杉原夫妻。ご令閨の「保身よりも人命救助を」の言葉を受けて発給を決断。そして、他の国へ逃れるため日本通過のビザ発給を求めて押し寄せたオランダ国籍のユダヤ人に、ビザ発行の作業が始まりました。

杉原領事代理は毎日まいにちビザを書き続け、スタンプを押し続けました。画面には、手書きのペンがクローズ・アップされ、スピーカーからは紙の上を走るペンの音がザッザッザッと聞こえてきます。そして、バック・グラウンドには「ユダヤ人のためにビザを発行しようと、一旦決心した杉原千畝の心にはもう迷いの陰はなかった。毎日まいにち領事館に押し寄せるユダヤ人に日本の通過ビザを発行し続けた。そしてビザを渡す時に、ユダヤ人一人ひとりに『バンザイ ニッポン』と言わせたのである。彼らの自分への感謝が祖国日本への感謝に繋がってくれることを杉原千畝は期待したのである」とのナレーション。

さらに、「来る日も来る日も、彼はビザを書き続ける。10日経っても20日経っても、領事館にやってくるユダヤ人の数は減らなかった。杉原千畝はこうしたビザを1600、大人のビザしか発行しなかった。子どもは大人が連れて行けばよいと考えていたからである。こうして日本に渡り、無事に救われたユダヤ人の数は6000人にのぼった」と、ナレーションは続きました。リトアニアがソ連に併合されたため領事館を閉鎖し撤退せざるを得なくなりましたが、9月5日次の任地ベルリンへ出発する直前の列車の中でもビザを書き続けたといわれます。


●杉原千畝氏「6000人の命のビザ」のともしび永遠に

ビデオ上映が終わった後、アジア文化交流センター研修旅行のシリーズ・テーマ「ヨーロッパに“アジア・日本”を訪ねる旅」に因んで、今回は日本のシンドラー・杉原千畝氏ゆかりの当地を訪れた趣旨をお話し、参加団員からの寄付金300ユーロを贈呈させていただきました。「日本の正義の人・杉原千畝」の灯火が永遠に消えないことを願って。責任者は不在でしたが、常駐の担当者からは丁重なお礼の言葉をいただきました。

その後案内された部屋では現代映像のプロジェクションがありました。蓄積された画像をデフォルメし、あるいは新しい映像を素材としてユニークな作品が構築されて放映されていましたが、正直言って私にはあまりなじめない作品のようでした。他にも展示室があり、記録写真や貴重な資料・書籍等が展示されていました。遺影や遺品、日本に帰り着くまでの地図等々も展示されていました。

特に印象に残ったのはタイプライターと杉原千畝領事代理の執務室。タイプライターは黒色のどっしりしたタイプ。今のパソコンや少し前のワープロと違って重量感があり懐かしいフォルム。今にもタイピングの音が聞こえてくるようです。執務室は意外と狭く、質素。5m×4mほどでしょうか。壁には日章旗が掲げられ、その前には幅2mほどの机がどっしりと存在感豊かに設えられていました。この机の上で杉原領事代理が6000人の命を救ったビザを書いたと思うと感慨一入。

ところで杉原千畝氏の生い立ちといえば、1900年1月1日父好水と母やつの次男として、岐阜県の八百津町で出生。そのご縁で、八百津町には「人道の丘公園」が創設され、同園内に「杉原記念館」があります。千畝生誕100周年を記念して建設され、2000年7月30日オープン。私たちアジア文化交流センターも、バルト三国の研修旅行の事前研修を兼ねて、本年6月に八百津の杉原記念館を訪れて学習しました。

八百津町で幼・少年時代を過ごし、その後税務署員である父親の仕事の関係で名古屋市へ移住。1912年名古屋市立古渡尋常小学校を「全甲」の最優秀成績で卒業。そして愛知県立第五中学校(現・瑞陵高等学校)に進学。私たち愛知県人とは非常にご縁が深い。1917年同校を卒業後、朝鮮総督府財政部に出向中の父の希望で京城医学専門学校を受験するが白紙答案を出してわざと不合格に。

1918年早稲田大学高等師範部英語科に入学したものの、翌年外務省留学生試験に合格して大学を中退。外務省ロシア語留学生としてハルピンに留学。1924年には外務省書記生として採用されました。同年2月には満州里在勤を命じられ、陸軍歩兵少尉に任官されています。同じく12月にはハルピン在勤を命じられており、この年千畝氏の外交官生活がスタートしています。偉大な外交官の淵源はここにあったのです。

杉原記念館・スギハラ・ハウスで見学・研修すること1時間余の後、記念館前で記念撮影。2本の門柱には前述のように、切り抜き文字が施されたステンレス板が取り付けられていました。向かって左の門柱には「希望の門 命のヴィザ」の文字が明朝体で著されています。向かって右側の門柱には、「VILTIES VARTAI VIZOS GYVENIMUI」と記されていました。これはおそらくリトアニア語による標記でしょう。団員一同、日本語の門柱の文字が隠れないように並んで記念の集合写真を撮影。


《次号へ続く/2010.2.2 本田眞哉・記》


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