研修紀行 Ⅹ

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アジア文化交流センター09夏の研修 ──

 
ヨーロッパに“アジア”を訪ねる旅 Part Ⅳ

  
杉原千畝氏「6000人の命のビザ」ゆかりのバルト三国と
   

              サンクト・ペテルブルグを訪ねて⑦
    
  

●偉大な功績にも拘らず冷遇された杉原千畝氏

杉原記念館を後にしてバスは動き出しましたが、同じ日本人として誇らしい気持ちと、少し重い印象の余韻が私の胸の内で交錯していました。1940年8月3日にリトアニアがソ連に併合され、杉原千畝氏はカウナスを後にして、10月にはチェコスロバキア日本領事代理としてプラハに赴任。そして、1942年にはルーマニアの日本公使館総領事としてブカレストへ赴いていますが、以後、終戦後1947(昭和22)年故国日本へたどり着くまでの道行きは“敗残兵”にも勝るとも劣らない過酷なものでした。

かてて加えて、帰国後間もなく1947(昭和22)年6月13日、突然外務省は杉原千畝氏に外務省解任(免官)の命令を下しました。47歳、まだまだ働き盛りの解任でした。解任理由は、リトアニア時代の訓令違反との見方がある一方、折からの外務省の人員整理の一環だとも言われています。が、真相は明らかにされていません。その後も彼は冷たくあしらわれ、彼の勇気ある人道的快挙も日本国内では人口に膾炙することもなく、外務省サイドでも封印された形になっていた模様です。

帰国後の仕事の方も、東京PX総支配人や貿易会社の取締役の職についたり、あるいは語学力を生かしてニコライ学院のロシア語教授、NHK国際局勤務でソ連向け放送のための翻訳やソ連向け宣伝映画の吹き込み等に従事したりしました。1950年から1975年までの25年間に9つのポストを転々とせざるを得なかったようです。

そうしたなか、杉原氏85歳の1985(昭和60)年、イスラエル政府より「諸国民の中の正義の人賞」を授与され、エルサレムの丘に顕彰碑が建立されました。このことにより、彼の業績にようやく曙光が見え始めたといえましょう。そして「日本のシンドラー」として彼の名誉ある功績が日本国内でたたえられ始めました。が、そうした折も折り、杉原千畝氏は1986(昭和61)年7月31日、享年86歳で亡くなられたのです。

ところで、杉原氏の業績に対して日本政府の対応・評価はどうだったのでしょう。日本政府の杉原氏に関する公式のコメントは、1991(平成3)年、中山太郎外務大臣がイスラエルを訪問した際、「誇りに思っている」と述べたのが最初といわれています。何と杉原氏逝去5年後、イスラエル政府顕彰から6年後。また、同年10月3日には、あの鈴木宗男外務政務次官(当時)が杉原幸子夫人を外務省飯倉公館に招いて謝罪したといわれます。同年3月にリトアニアを含むバルト三国がソ連から独立したことを機に、日本との交流について調査を進める中で、杉原氏の功績と外務省免官の事実が分かり謝罪に至ったといわれます。実に情けない話。

さらに対応が遅かったのが国会。1992(平成4)年3月に、衆院予算委員会の席上で草川昭三委員が杉原氏の罷免理由について質問し、政府の「謝罪と顕彰」を求めました。それに対する渡辺美智雄外務大臣(当時)の答弁要旨は次のようです。

杉原氏が訓令違反で処分されたという記録はない。ビザ発給後7年間外務省に勤務していたのだから処分されたわけではない。1947(昭和22)年に免官されたのは、外務省の職員の人員整理で解雇された3分の1に入ったというだけで不名誉な解雇には当たらない。人道的見地から苦労をしてビザを発給されたことはたたえたい気持ちである。

また、兵藤長男外務省欧亜局長(当時)と宮沢喜一内閣総理大臣(当時)も、杉原氏の行動はその時点で考えれば確かに訓令違反だったけれども、当時のナチスによるユダヤ人迫害という極限的局面においては、人道的かつ勇気あるものであった。結果的に見れば美談だったわけで、その判断と功績をたたえたいと思う、と答弁しています。しかし、これだけでは政府によって杉原千畝氏の名誉が回復されたとは言えないと私は思います。

●故郷八百津町が杉原千畝氏を顕彰

一方、民間レベルと申しますか、杉原氏の生まれ故郷の岐阜県八百津町では、前述のように彼の功績を顕彰して1992(平成4)年8月に「人道の丘」公園が開園され、彼の銅像が建立されました。さらに1994(平成6)年9月には杉原千畝顕彰式が挙行され、河野洋平外務大臣(当時)からは、「杉原氏は当時の暗い歴史の中で一筋の光を与えてくれた。外交政策の決定では、どんな場合でも人道的考慮が重要であると考える。」といった趣旨のメッセージが寄せられています。杉原氏の追想記が長くなってしまいましたが、このことは今回の旅のメイン・テーマですのでお許しあれ。

話を旅に戻しましょう。杉原千畝記念館のあとは一般的なサイト・シーング。専用バスは、杉原記念館のある住宅地からカウナス旧市街地へ。カウナスはナムネス川とネリス川の合流地点にあり、西ヨーロッパの通商の要衝として発展しました。第一次世界大戦後、ビリニュスがポーランドによって占領されたため、カウナスはリトアニアの首都となりました。以後、第二次世界大戦後までリトアニアの首都はカウナスでした。

したがって、杉原千畝領事代理が在勤していた時も日本領事館は首都カウナスに置かれていたわけです。第二次世界大戦後、ポーランドによる占領が解かれると、再びビリニュスが首都に。一方、カウナスはリトアニア第二の都市として急速に再建が進みました。しかし、1940年以降ソヴィエト政権下になり、ソ連が伝統ある自国の文化の独自性をないがしろにしたり、政治介入の果てにリトアニア人をシベリアへ追放したり虐殺したりしました。カウナスの人々は、そのようなソヴィエト政権の行為に強く抵抗したとのこと。

 

●カウナスでの見学は徒歩で

そうした歴史より前の前の時代にさかのぼってみましょう。リトアニアは、13世紀に建てられたリトアニア大公国がその起源。15世紀にはヨーロッパで最大の領土をもつ国となりました。15世紀はリトアニアの最盛期。その時期に建てられた教会やお城等々が密集しているのがカウナスの旧市街。ナムネス川とネリス川の合流地点の三角地帯。

この三角地帯の中に見学ポイントが密集しているため、バスを離れて徒歩行。目的とする教会とかお城といった歴史的建造物は、地図で見ると500~600mのメッシュの中に収まる感じ。その中を“走り参宮”で見学したポイントは次の通り。ヴィタウタス大公教会、カウナス旧市庁舎、ベルクナースの家、聖ペテロ・パウロ大聖堂、カウナス城etc。

まずはヴィタウタス大公教会。15世紀前半に建てられたゴシック様式の教会。ヴィタウタス大公が、タタール征伐に出かけた際、戦場で奇跡的に難を逃れたことから感謝の印に建てられたといわれています。次はカウナス旧市庁舎。その白く、堂々とした美しい外観から、『白鳥』に例えられるカウナス旧市庁舎は、16世紀半ばに建てられたバロック様式の建造物。事務所、文書庫、倉庫、刑務所、ロシア皇帝の公邸など、歴史とともに様々な用途で使用されてきた旧市庁舎は、現在では、結婚式や、市の賓客の歓迎セレモニー、調印式等が行われる場所として利用されています。

旧市庁舎のすぐ近くに赤レンガの重量感のある建物がありました。この建物は、15世紀に建てられたゴシック様式の記念碑的作品。その昔、ランプを手にした雷神ペルクーナスの彫像が屋根に取り付けられていたことがこれまでの研究で判明しています。そのため、この家が建っている場所には、その昔ペルクーナスの祭壇があったなど、建物と雷神ペルクーナスを結びつける数々の伝説が生まれました。しかし、実際のところは、ハンザ同盟の商人が商用に購入した建物であったとのこと。

少し歩いて聖ペテロ・パウロ大聖堂に到着。1413年に建てられたこの教会は、度重なる戦争や火事の犠牲となりました。元々はゴシック様式の建物でしたが、修復の度に姿を変え、現在は、ルネサンス、バロック、ネオゴシック様式の特徴を備えています。地下には歴代主教が埋葬されており、また教会付属の庭にはリトアニアの民族再生詩人マイローニスのお墓があるとか。しかし、ミサの最中で中を見学することはできませんでした。

ガイド嬢のリードで訪れたのは、次なる教会?と思いきや、何とスーベニール・ショップ。団員諸氏も、旅のベテランになったせいか、衝動的な買い物はしなくなったようです。慎重に品定めをし、財布と相談して、真に有用なものしか買いません。が、逆に所要時間は長くなります。30分ほどでお店に別れを告げ、次なる目的地であるカウナス城へ。

カウナス城は、14世紀に作られたリトアニア最古の石造りの城で、1361年の古文書にカウナス城に関する記述が見られます。リトアニアの戦略拠点として重要な役割を果たしていたカウナス城は、幾度も十字軍の攻撃に遭いました。1410年のジャリギリスの戦いを最後に、戦略拠点としての意義を失い、17-18世紀の戦争で、城の大部分が倒壊してしまいました。現在、城は観光情報センターとして利用されています。

一旦ホテルに帰り、夕食のためにレストランへ向かう途中、ヴィエニーベス広場に「FREEDOM MONUMENT」が建っていました。これは「リトアニア独立のため犠牲になった英雄たち」の記念碑。最初の独立(第一次・第二次世界大戦間:1921?)のときに建てられましたが、ソ連に併合され撤去。1989年民族組織「サユディス」(「運動」の意)が組織され、ラトビアエストニアなどと連携して独立運動を進めるなかで再建されました。石はそれぞれの戦闘が行われた場所から集められ、無名兵士たちの灰が中に収められています。カウナスでは、結婚式の後、ここへ献花に来るのが習慣になっているそうです。

《次号へ続く/2010.2.2 本田眞哉・記》


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