研修紀行 Ⅹ

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アジア文化交流センター09夏の研修 ──

 
ヨーロッパに“アジア”を訪ねる旅 Part Ⅳ

  
杉原千畝氏「6000人の命のビザ」ゆかりのバルト三国と
   

              サンクト・ペテルブルグを訪ねて⑧
    
  

EUに仲間入りしたリトアニアの近況

8月25日火曜日、朝食後ラトビアのリガに向けて出発。リガまでは275km、所要時間4時間45分の予定。ただし、ノン・ストップではなくて、途中「十字架の丘」のあるシャウレイに立ち寄り、その後国境を越えてリガへ。バスはBEST WESTERN SANTAKOSホテル前を午前8時前に出発。市街地をぬけて高速道路へ。高速道路は整備が行き届いていて快適な走り。ハイ・ウエイ走行中にガイド嬢がリトアニアの最近の情勢を話してくれました。

リトアニアはヨーロッパの真ん中にあるためEUにとっては有利な位置にある。西ヨーロッパとロシアの間にあり、経済の通路の要衝の地である。リトアニアはバルト三国の中で経済と教育が最も発展している。リトアニアは希望がかなってEUの仲間入りができた(2004年・第5次拡大・ラトビア、エストニアも)が(通貨は未だユーロになっていない)、給料は安くなり物価は高くなった。でも、バルト三国の中でリトアニアは物価が最も安い。

ソ連はリトアニアを占領して、金持ちの農民から土地を取り上げスウエーデンに追放。土地を国有化してコルホーズを作りました。現在土地は返還され私有地になり、リトアニア人の20%が農業に従事しています。リトアニアの主要輸出品は農業産品。なお、ソ連占領下からリトアニアが独立宣言してからもリトアニアに住み着いたロシア人は全人口の5%。そのロシア人は現在リトアニア国民の扱いを受けています。因みに、ラトビアとエストニアのロシア人は国民になっていません。

 バスはハ・イウエイをしばらく走ったのち、一般道へ。空は快晴、緑豊かな平原の中を片側一車線の道路がカーブを描きながら走る気分は格別。リトアニアには山はなく最も標高の高いところは300mの丘。ヨーロッパを訪れるたびに感じるのは、バスの窓外の風景を見ると雑草が目立たないこと。日本では、背丈ほど伸びた雑草が生い茂って、特に冬場などでは枯れたままになって、ごみごみと汚い感じがします。一方、ヨーロッパ(イタリア南部を除いて)では、たとえ雑草が生えていても何か芝生のジュータンのように見えるのはなぜでしょうか。

異様な雰囲気の「十字架の丘」

 カントリー・ロードを走ること2時間余、バスはシャウレイ郊外12kmのところにある「十字架の丘」に到着。真っ青な空のもとに広がる大平原の中に十字架の丘はありました。アプローチ道路の脇にもたくさんの十字架が立てられていました。丘の高さは10mほど、平面は円形で大きさは直径100mほどでしょうか。このなだらかな丘を縦断するような形で一本の小径が付けられております。木製の階段でできた幅1.5mほどのこの小径は意外と歩きやすい。

小径の両側には大小様々な十字架がビッシリ。一種異様な雰囲気。大きなものは幅が約2m、高さは5mに及ぶものも。大きい十字架は結婚式の記念に立てられたとか。リアルに彫られたキリスト像が付けられているのもあります。小さいものは手のひらに収まるロザリオ・サイズ。その数は5万とも5万5千ともいわれています。丘の反対側に降りたって振り返ると、日本では滅多に見られない群青の空を背景に、十字架が強烈な太陽光を受けて浮かび上がっていました。団員一同階段に並んで集合写真をパチリ。

 この「十字架の丘」の起源は、1831年ロシアの支配に対しての「11月蜂起」の犠牲者を弔うため、どこからともなく人々が十字架を持ち寄ったことにあるとのこと。その後、1863年にも「1月蜂起」がありましたが、これまた失敗に終わり、大勢のリトアニア人が犠牲になり十字架が立てられました。ソ連軍は3度にわたりブルドーザでこの丘にある十字架を撤去しましたが、人々は屈することなくこの丘に十字架を立て続けたといわれます。

隣接して簡素なチャペルが建っていました。1993年、ローマ法王ヨハネ・パウロⅡ世がリトアニアを訪れた際、このチャペルで大きなミサが執り行われたとのこと。ではありますが、丘全体は国立で、どの宗教・宗派にも属さず全人類に開かれたものとのことでした。

●リガには「ユーゲント・シュティール」建築群

 十字架の丘は墓地ではなく、強烈な日差しを受けて何の暗いイメージもないのに、何か重い複雑な思いが頭をよぎるなかバスは出発。約1時間半後リトアニアとラトビアの国境に到着。何ともお粗末な国境線。いや、線も有るのか無いのか、小さな2階建ての事務所らしき建物と差し掛け。両替所も広さ10㎡あるかないかの小屋。EU加盟国同士ですからパスポート・コントロールもなし。

 国境を越えてラトビア領に入ったとたん、走行中の「A8号」線道路の路面状態が悪くなり、車内にはガタガタ、ガタガタとノイズが響き渡り、覗いているVTRカメラのファインダーが大きく揺れ、カメラを保持するのが大変。片側一車線の舗装道路ですが、アスファルト路面の痛みはひどく、はるか前方の路面は波打って見えます。陽炎のせいではないと思いますが…。ただ、道路周辺は砂漠ではなく、道路の両側には高さ数mの並木が茂り、緑豊かで潤いがあるのが救いです。こうした道を2時間ほど走って、リガ市内に着いたのは午後1時半ごろ。中華料理の昼食をとって市内見学へ。

 まずは旧市街地のユーゲント・シュティール(アール・ヌーボー)建築群。ユーゲント・シュティール建築とは、その名の示すとおり19世紀にドイツに起こった建築様式。建物の外壁を人の顔や体などをモチーフとして装飾するのが特徴。帝政ロシア時代のリガは財政豊かで19世紀から20世紀にかけてこの方式の建物がたくさん建築されました。アルベルタ通りとエリザベート通りに数多く見られました。ユーゲント・シュティール建築の代表的建築家はミハエル・エイゼンシュタイン。映画『戦艦ポチョムキン』を撮った映画監督セルゲイ・エイゼンシュタインの父。アルベルタ通りにミハエル・エイゼンシュタインの作品がありました。

4階建てのビルでイタリア大使館とか。窓の上の半円形の庇の中央や最上部のカーブを描いた外壁には人面や花柄などの浮き彫りが施されていました。そして、建物両端の低い塔屋には、左右一対のライオン像が悠然と佇んでいました。そして正面の外壁下部には、ミハエル・エイゼンシュタインの石板のレリーフが嵌め込まれていました。浮き彫りの肖像の横には、「MIHAILS  EIZENSTEINS 1867-1921」の刻銘。なお、これらのユーゲント・シュティール建築群は旧ソ連統治下ではすべて国有化されて荒れ放題だった由。1991年旧ソ連が崩壊してラトビアは再独立を果たし、以後2001年の建国800年を機にこれらの建築物の修復が進められました。

 余談ながら、この付近の路上には日本車がズラリ。わずか延長100m余の道路脇に、ホンダ・三菱・レクサス・日産・トヨタ・マツダ etc.これらの自動車は半分歩道に乗り上げており、その脇の石畳を注意深く歩いて専用バスへ。バスに乗って数分、旧市街で下車。ご多分に漏れず、当地でも旧市街地は徒歩で見学。ヨーロッパではこれがスタンダード。


《次号へ続く/2010.4.2 本田眞哉・記》


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