研修紀行 Ⅹ

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アジア文化交流センター09夏の研修 ──

 
ヨーロッパに“アジア”を訪ねる旅 Part Ⅳ

  
杉原千畝氏「6000人の命のビザ」ゆかりのバルト三国と
   

              サンクト・ペテルブルグを訪ねて⑩
    
  

●タリンの歴史的遺産には時代の重み

 バスがタリン市内に入ったのは時計の針が午後1時を少し回ったころだったと思います。昼食を済ませて市内見学。見学スポットは旧市街。ガイド・ブックによれば、スポットから次のスポットへ移動するのに徒歩で2~3分。最も離れたところでも4~5分。したがって、市内見学は全行程on foot。

 バスを降りて最初のスポットは「トーム・ベア城」。13世紀初めに騎士団によって建てられ、18世紀にロシアのエカテリーナⅡ世によってバロック様式に改築されました。現在は国会議事堂として使われています。南側に「のっぽのベルマン」と呼ばれる円筒形の塔が付設されています。広場を隔てて反対側に建っているのはアレキサンダー・ネフスキー教会。玉ねぎ型の丸屋根はロシアへ来たかと錯覚。それもそのはず、聞けば1901年当時の支配者であった帝政ロシアによって建てられたとのこと。教派はもちろんロシア正教。内部を見学することはできましたが、「べからず」ずくめ。禁写真撮影、男子脱帽、私語禁止、ポケットに手を入れるべからず。

 5つのタマネギの塔に11個の鐘が吊されたアレキサンダー・ネフスキー教会を後にして、大聖堂の近くを通りトーム・ベア展望台へ。山の手の端っこにある展望台に立つと、旧市街の全景がパノラミックに展開して素晴らしい眺め。足下の急傾斜の赤い屋根と白壁の建物群から、遠くはバルト海のフィンランド湾の海面まで一望の下に見えます。横軸に広がる風景の中に、特に目につくのが三つの塔の縦軸。右から旧市庁舎の塔、次に聖雲教会の塔、そして一番左に見えるのが聖オレフ教会の塔。13世紀に建てられた聖オレフ教会の塔は高さが159mありましたが、火災に遭い修復後は現在の125mの高さに。

 ガイド嬢の日本語が聞き取りにくくて間違いがあるかもしれませんが、旧市役所の塔のてっぺんには、15世紀にタリンの町の入り口を守った“古い”(年寄り?)トーマスの像が置かれていて、上から町を見守っている、旧市庁舎の風見の象徴になっているとのこと。肉眼ではよう分かりませんでした。ともあれ、トーム・ベア展望台からは旧市街の全貌が把握できて満足。

●中世の面影いっぱい石畳の町並み

 トーム・ベアという地域は石灰岩の台地の上。石畳の坂を下って下町へ向かう途中、城壁を見学。タリンの町には中世の城壁の大部分が現存しており、貴重な歴史的遺産。城壁の内側の最高部分には木造の回廊が付設されていました。このスタイルどこかで見たことがあるなぁ、と自分の脳の中のデータを検索してみました。そうそう、ロマンティック街道のローテンブルグの城壁。城壁の上部に付設された木造の回廊を歩いたことを思い出しました。

 城壁の端の方に赤いとんがり屋根の円塔が見えます。キーク・イン・デ・キョクという名前の建造物。その名前は「台所を覗け」という意味だそうで、高さ38mの塔から周囲の台所を覗くことができたことに由来するとか。

 城壁から歩いて歩いて、また歩いて…、石畳の坂道を上ったり下ったり、石の階段を昇ったり下ったり。タリンは起伏の激しい土地に築かれた町です。広場でさえ傾斜しています。14世紀に建てられた白い壁の聖霊教会の軒先には、今もなお時を刻み続けている壁時計。タリン初のこの公衆時計をカメラに収めてラエコヤ広場へ。

 細い道から広場へ出た途端、真正面に旧市庁舎の大きな建物と高い塔が、周りを圧倒するかのように現れました。聞けばこの旧市庁舎、北ヨーロッパで現存する唯一のゴシック様式建築とのこと。最初は14世紀半ばに建てられ、現在の形になったのは1404年。18世紀に作られた塔の高さは65m。

 広場で自由行動の“お触れ”が出たので、周辺の路地に入って写真を撮ることにしました。トンガリ屋根の建物が並ぶ商店街やショー・ウインドー、旧市庁舎の塔、広場の露店、オープン・カフェetc、撮影の題材には事欠きません。中でも特筆すべきは「市議会薬局」。コロンブスのアメリカ大陸発見以前から営業しているという、ヨーロッパ最古600年続いている薬屋さん。

 ゆったりした時間の中で数々の写真を撮ることができました。ただ、難点は天候が薄曇であったこと。でも、撮影媒体がフィルムでなくデジタル・データ・メディアなので、不出来な写真のデータは消せばよいし、明るさやコントラストや色合いなども簡単に補正できるので気楽にシャッターが押せます。今回も旅全体では800枚ほど撮りましたが、よいものだけを取捨選択して、自分のパソコンを使ってプリント・アウトすれば、DPE屋さんに依頼するのに比べて大幅にコスト・ダウンができるというもの。

 さて、自由行動でそれぞれショッピングや見学に散っていた団員は、午後4時半に集合してホテルへ向けて出発。ヴィル門のところを通って迎えのバスの乗り場まで歩きましたが、その途中大変興味深い小路を通りました。全体が石のアーケード街といった感じで、中世の街道の趣。石壁には「1255」と刻銘されたプレートがはめ込まれていました。幅4mほどの小径の両側面は荒削りの石の壁で、路面ももちろん石畳。何本かある道を横切る桁も石造りのように見えます。ドミニカ修道院に沿ったこの小路、の長さは100mほどあったでしょうか、小路沿いにはカフェやガラス・陶器・帽子等々いろいろな工房が連なっていました。

●バルトの“ナイアガラ”は色彩豊か

 8月27日木曜日。午前8時専用バスは、宿泊したガラス張り高層の「ラディソンSASタリン」ホテル前から、ロシアのサンクト・ペテルブルグへ向けて出発。きょうは移動日。途中“エストニアのナイアガラ”といわれている「ヤガラの滝」を見学。その後1時間半弱でトイレ休憩。さらに2時間半ほど走って国境の町ナルバへ。ナルバ到着後昼食。そのあと国境の城ナルバ城見学。見学後エストニア出国、ロシア入国。この国境越えが大変。パスポート・コントロールと入国審査に要する時間は、速ければ30分、遅い場合は2時間を超えることも…。以上は添乗員三和田君の、きょうの旅についての出発時のガイダンス。

 ホテルを出てから約30分、ハイ・ウエイから田舎道に入って「ヤガラの滝」に到着。 “バルトのナイアガラ”と呼ばれているこの滝、ナールホド、一見形は似ていますが…。滝の幅は確かに広い、60m~70mはありましょう。ただ、水が流れ落ちている幅は30mぐらいでしょうか。しかし、高さはとなるとウーン、10mぐらいかな? 私はナイアガラへ行ったことがないので何とも論評のしようがありません。

 ただ、異様に感じたのは、滝の水の色。白色やら黄色やら赤色やらの水が縦縞模様になって流れ落ちていること。滝の直前のシャガラ川の上流は、深くよどんだ上に太陽光線を反射しているためよく分かりませんが、予め色とりどりの縞状になって流れているのでしょうか。でなくて、流れ落ちる寸前に色とりどりの岩または土を浸食して着色されているのでしょうか。だとすれば、川床の先端、つまり滝口の浸食が激しく急速に後退してしまうでしょう。

 疑問点をそのままにバスは出発。帰国後ウエブ検索してみましたが、ヒットしません。バルト三国の紀行文はかなり検索できましたが、ヤガラの滝をキー・ワードにしての検索では文字も写真もノー・ヒット。一つだけhitしたのが英文の「jagala juga.jpg」。jpgの拡張子からもお分かりのように、写真のみで解説はありませんので疑問は解けず。現場には説明板が立てられていましたが、エストニア語?なので読み取れませんでした。ただ、ウエブ上で見つけた別件で関連があるのかなぁと思った一文がありました。それは川の色に関する記事で、その川が流域の泥炭のタンニン酸を溶かして流れている場合流水が発色する場合があるとか。

 リガ市街地探訪、まずはブラック・ヘッドのギルド。リガ市庁舎広場に面して建つ、赤白色彩の実に鮮やかなユニークな形の建物。正面上部には大時計。その下の壁面にはハンザ都市4市の紋章とギリシャ神話の神々4体の彫像。この建物も第二次世界大戦で破壊されましたが、2001年の建国800年祭を迎えるに当たって再建されたとのこと。正面上部青色の帯の部分には、「ANNO 1334 RENOV ANNO 1999」と記されていました。

《次号へ続く/2010.6.2 本田眞哉・記》


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