研修紀行 Ⅹ

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アジア文化交流センター09夏の研修 ──

 
ヨーロッパに“アジア”を訪ねる旅 Part Ⅳ

  
杉原千畝氏「6000人の命のビザ」ゆかりのバルト三国と
   

              サンクト・ペテルブルグを訪ねて⑪
    
  

●力士「把瑠都」の出身地ラクベレを右に見て

 バスは、エゾ松、赤松、白樺の樹林を抜けて再びハイ・ウエイへ。ガイド嬢曰く「エストニアの自然は北海道に似ています」。ハイ・ウエイは、エストニアのタリンとロシアとの国境の町ナルバを一直線に結ぶ主要道路、「E20号線」。国内ルート・ナンバーは「1号線」。E20号線は片側2車線、中央分離帯は2車線以上の幅員の芝生・雑草帯という道路構造。日本の高速道路のイメージとは若干違います。

 主要道路とは立体交差になっていて、結節点はインタ・チェンジ方式になっています。しかし、日本でいう地方道との結節点は簡易方式。右折して地方道へ入る場合は、長さ60~70mの右折帯に入って右折。この場合は余り問題ありません。問題は、左折で対向の高速車線を横切って地方道へ出る場合。追い越し車線から、一旦芝生の中に舗装された中央分離帯に入って停車。対向車線の車列が切れるのを待って対向車線に侵入。結果としては中央分離帯を通ってUターンする形。しかる後、直近の右折帯から地方道へ出るという寸法。通行料金を徴収しないためできる方式ですが、道路建設費も大幅に節約できるでしょう。

 タリンを出てから約1時間半、ドライブ・インで小休憩。ドライブ・インは松林の中にあり、カントリー風。土産を買う人、コーヒーを飲む人、それぞれがそれぞれ。名前は分かりませんが、魚の干物もぶら下がっていました。パーキング・エリアには日本車も数台駐車してありました。このあたりから道路は片側一車線。轍も深く路面の整備が充分行き届いていない感じ。と、右手に案内板。「直進:1号線、E20号線、NARVA。右折:RAKVERE。左折:HLJALA。」(もちろん、現物は矢印や記号を使っています。便宜上ここでは言葉で表現)。

 しばらく走ると、右手にかなり大きな町が見えてきました。高い建物や工場らしきものも。ガイド嬢の説明では、このRAKVERE(ラクベレ)の町は相撲の「把瑠都」の出身地とのこと。把瑠都は三保ヶ関部屋に入門し、現在は尾上部屋に属していて、最近成績を上げています。ネーミングはもちろん「バルト三国」のバルトから。「6年前までは、エストニア人は相撲のことについては見ることもできず、何も知りませんでした。把瑠都が有名になってからはエストニア人も相撲のことをよく知るようになりました。把瑠都は7月にエストニアに帰り3週間ほどいましたが、将来はエストニアに帰りたいと。彼は今年ロシア人と結婚。彼女のお母さんは東京でロシア料理のレストランを経営しています。」とガイド嬢。

●国境の町ナルバの古城

 バスは両側に大きな樹木の茂る中を淡々と進行。かなりの数の風力発電の風車が風を受けてゆったりと回転。バスが標高の高いところを走っているのか、左側の車窓には海。フィンランド湾でしょうか。それから1時間ほど走ると、道路右側にトラックの列。100m、200mと走っても走っても、トラックが停車していました。台数は何十台、いや、何百台でしょうか。聞けば、国境の税関待ちとか。ということは、私たちは国境の町ナルバの郊外に着いたということ。時計を見ると午前11時40分。まだまだトラックの列は続きます。この車列1km以上に及ぶのではないかと思われます。

 1日に通関できるトラックは80台という情報があります。とすれば、行列する数百台のトラックの積荷の税関通過には2日間ほどかかる計算。月曜日は3日待ちとか。EUとロシアの国境であるため格別審査が厳しいとのこと。私たちのバスもどれだけ待たされるのかなと心配しましたが、観光客は優先のようで、そこ(・・)のけ(・・)そこ(・・)のけ(・・)と乗用車の間を縫って事務所の前へ乗り入れ。ドライバーが書類を持って事務所へ入っていきましたが、数分で手続き終了。ドライバーも緊張して興奮気味か、ちょっと荒っぽい運転で市街地へ。ヤレヤレ。

 国境線は町のど真ん中にありますが、そこへ行く前に腹ごしらえ。レストランは「サルバドーレ」。昼食後、国境ゲートに隣接するナルバ城を見学。ナルバ城は14世紀から16世紀にかけて造られ、その城域はナルバ河畔の絶壁まで広がっています。見下ろすナルバ川は、川面が黒ずんで見え、ゆったりと流れていますが何か不気味。川を隔てて対岸はロシア領。ここにもまた古城。14世紀イワンⅢ世の時代に造られたイワン・ガローダ城。強固な城壁、トンガリ屋根に円形の塔。川の中州で2~3人が釣りをしていましたが、そこはロシア領。

 川の中の国境線、目の当たりにしても島国の日本人が心底理解することは難しいなぁ、と思いながらナルバ城の中心部へ引き返しました。この城の周辺部には城壁や櫓がありますが、中心部はガランとした広場。度重なる戦火で焼失したとのこと。ただ一つ残るノッポの塔を背景に集合写真を撮影。

●国境を越えロシアへ

 さあ、いよいよ国境越え。かなり順番待ちをして、わがバスがゲートに入ったのは確か午後2時半ごろだったと思います。エストニア側でまず出国手続き、出国審査があったのち、バスはナルバ川に架る橋を渡りロシア領内へ。バスから降りて入国管理事務所で審査を受けたのち、先行したバスに再び乗り込んだように思いますが記憶が曖昧。いずれにしても時間はかかりましたがトラブルはありませんでした。私たちより1台前のバスの乗客はスーツ・ケースをバスから降ろして係官と何かもめている様子でした。ともあれ、午後3時ごろロシアに入国できました、ほ~ッ。

 ロシアの国境の町イヴァン・ゴロド。イワンⅣ世のころに築かれた町。天気は雨となりました。日本との時差は1時間短縮して6時間。したがって、入国時のロシア時間は午後4時ということに。バスは走りだしましたが、路面はデコボコ。サンクト・ペテルブルグまでは128kmのロード・サイン。雨の中をひたすら走るのみ。午後6時ごろからは猛烈な雨になりました。高速ワイパーも追いつかないほど。

 午後7時過ぎようやくバスはサンクト・ペテルブルグ市内に入ったようですが、市の中心までは20kmほどあるとのこと。対向車線には、ヘッド・ライトを点けた車の行列。どこまでもどこまでも延々と。10分ほどすると、こちらの車線も渋滞に。雨が降っている上に路面整備がなおざりにされているせいか、白線も消え何車線あるか分かりませんが、現状は自動車が4台並走の形。みんな苛立っているようで、運転の仕方がかなり強引。最もひどいのは、歩道に乗り上げそのまま歩道上を走行する小型車。「何ともなりませんですね、この渋滞は。さすが温厚な私たちの運転手さんもイライラ気味のようです」と三和田添乗員。ホテル到着目標時刻午後6時はもうとっくに過ぎ、もうすぐ8時。

《次号へ続く/2010.6.2 本田眞哉・記》



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