研修紀行 Ⅹ

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アジア文化交流センター09夏の研修 ──

 
ヨーロッパに“アジア”を訪ねる旅 Part Ⅳ

  
杉原千畝氏「6000人の命のビザ」ゆかりのバルト三国と
   

              サンクト・ペテルブルグを訪ねて⑫
    
  

●サンクト・ペテルブルグの華「エカテリーナ宮殿

 8月28日金曜日、旅の最終日。きょうの出発は午前9時ということで、ゆったり。サンクト・ペテルブルグでのきょうの日程は、まずエカテリーナ宮殿を見学。市内に戻って昼食。午後はエルミタージュ美術館の見学。そしてショッピング。夕方、フォルクローレ演奏会を聴いて夕食。と三和田添乗員のインフォーメーション。

バスは午前9時少し前にホテルを出発。ガイド嬢の日本語の発音が非常にクリア。聞けばかなり長期にわたり日本に滞在していたとか。プーシキンの町にあるエカテリーナ宮殿までは片道25km、バスで約1時間要するとのこと。サンクト・ペテルブルグは雨の都“弁当を忘れても傘を忘れるな”とか。ン?どこかで聞いたフレーズ。なるほど、バスの前方には黒雲が…。

と、突然バスの横っ腹に「ドカーン!」。そう、衝突事故。バスがUターンするためでしたか、細い道から大通りへ左折したところへ、直進してきたトラックがバスの前輪の後ろの左側面に衝突。トラックの前のバンパーがへこんでトラックの前輪に食い込んだ形。バスの運転手とトラックの運転手が力を合わせてヨイショ、ヨイショとバンパーを引っ張り出します。バスの運転手が何か書類を書いてトラックの運転手と話し合い。示談成立かナ? 事故処理に15分ほど要したでしょうか、再びバスは出発。

 ハプニングはあったものの、午前10時には宮殿に到着。「黄金の門」から入場。館の入り口近くでは音楽隊が歓迎の音楽を生演奏。日本人と見れば日本の曲を演奏。うまく心理をついたものです。「♪リ~ンゴの花ほころ~び…」の曲が聞こえてきました。楽隊の前にはドネーションの箱が置いてありました。大理石でできた正面階段から入館。

 エカテリーナ宮殿は、ピョートル大帝の后でもあった、第2代ロシア皇帝エカテリーナⅠ世が、ドイツの建築家ヨハン・フリードリッヒ・ブラウンシュタインを雇って避暑用の離宮として、1717年に造らせたのが最初。その後たびたび増改築を重ねて1756年現在の全長325mのロココ調宮殿が完成。私が前回1999年にサンクト・ペテルブルグを訪れたときには、この宮殿は見学できませんでした。もちろん、かの有名な琥珀の間も今回初めて目の当たりにして感激。ただ、琥珀の間だけ撮影禁止だったのが残念。

 エカテリーナ宮殿といえば「琥珀の間」。琥珀の間を見るためにエカテリーナ宮殿を訪れるという人もあるほど有名。あまり広くない壁が琥珀で覆われて文字通り琥珀色。ライティングの効果もあって息をのむほどの美しさ。琥珀でできた念珠の値段が10万円~130万円もするという念珠店のカタログの写真を思い出してウーンと唸るほかありませんでした。念珠の値段からはじき出すと、この琥珀の間の修復の費用はいくらかかったのだろう、とゲスの勘ぐり。第二次世界大戦中に、ナチス・ドイツがこの琥珀を剥がしてドイツに持ち帰ったといわれますが、その行方は未だに解明されず謎のまま。

 琥珀の間のほかに印象に残ったには「金」。金門をはじめ、大広間や客室の天井・壁・出入り口の金色の室内装飾。中でも大広間は、大黒屋光太夫がエカテリーナⅡ世に拝謁して帰国の許可を取った室といわれていますが、天井と壁面にはバロック様式の金箔の装飾と鏡がビッシリ。また、「黄金の廊下」もすごい迫力でした。等間隔の部屋々々の出入り口の柱と窓側の同じ位置の柱に、唐草模様の金色の装飾が施され、同じく金箔で装飾された天井のアーチが織りなして黄金の廊下を現出させています。廊下の奥行きは200mほどはありましょうか、上部が半円形の額縁が重なり合って、ここにもまた“遠近法”の見本。

 宮殿の見学を終え、庭園に出て青い壁と白い柱の宮殿を背景にして集合写真を撮影。午前中の見学はこれでおしまい。カツレツの昼食をいただいて午後はエルミタージュ美術館の見学。そうそう、ここで専用バスが入れ替わりました。衝突をしたバスの左側面、前輪のハウジングのすぐ後ろの擦過傷とへこみがあり、白い塗装が一部はげていました。走行には別状ありませんでしたが、別のバスに乗り換えエルミタージュ美術館へ。


●美術館の雄「エルミタージュ」感動一入

 相変わらず渋滞している街中を抜けてエルミタージュ美術館に到着。10年前に訪れたときは何か暗い印象でしたが、今回は非常に明るく陽気な雰囲気。前回は天気が悪かったせいでしょうか。特に中央に、高さ47.5mの「アレクサンドルの円柱」の立つ宮殿広場が一段と広く見通せます。エルミタージュ美術館は、冬宮・小エルミタージュ・旧エルミタージュ・新エルミタージュの複合館。全館には1050の部屋と120の階段があり、絵画・彫刻・工芸品など300万点を収蔵しているという。1点を30秒間かけて見るとすると、全てを見るのに2年間かかるとガイド嬢。

 「エルミタージュ」とはフランス語で「隠れ家」の意。ガイド嬢の発音が「ニンジャノイエ」と聞こえたので「忍者の家」と思いきや、「インジャノイエ:隠者の家」だったことが判明。さて、いよいよ入館。「大使階段」から入ります。3階分吹き抜けのこの階段、壁の装飾や天井画も素晴らしいのですが、目につくのは正面に並ぶ花崗岩の円柱。緩やかなエンタシスの重量感のある柱。

展示場の見学は、ガイド嬢について歩くという何とも主体性のない行動のため、何階の何の部屋かをチェックする余裕もなく過ぎゆくことに。あとで見学したポイントをトレースしてみましたら凡そ次のようでした。ピョートル大帝の部屋→戦争のギャラリー→白いホール→玉座→金の孔雀時計→モザイク床→レンブラント→ビザンチン→ダビンチ→ラファエロ→焼き物→カナレット。

そうしたなか、特に印象に残ったポイントをピック・アップしてみましょう。まずは絵画、就中レンブラントの絵。レンブラントといえば「夜警」。この絵は何年か前にオランダはアムステルダムの王立美術館で見ました。3.6m×4.37mという大きさと暗い画面の中からにじみ出てくる迫力に圧倒されたことを思い出しました。ここエルミタージュでまたレンブラントが鑑賞できるとあって感激です。まずは「放蕩息子の帰還」。人物が等身大に描かれており、ここのレンブラント群では最大。晩年に描かれたせいか、「夜警」のような迫力はなく、ぼろぼろの服を着て帰ってきた放蕩息子の今までの行いを言葉少なく何もかも赦すという状況が実にリアルに描き出されています。淋しい中にもほのぼのとした暖さが感じられる作品。この老人はレンブラント自身を表現しているように思われます。また、放蕩息子は彼の波乱に満ちた生涯かも知れません。

次に出会った絵は「聖家族」。1645年の作品。レブラントは1634年アムステルダムの富裕な家のサスキア・ヴァン・アイレンブルグと結婚。しかし、サスキアは夭折。その後彼の生活は次第に荒れ模様となり、投資に失敗したこともあり、多額の借金を抱えて破産状態に。そうした中で描いた作品なのに、サスキアとの間に生まれたティトゥスの養育係兼家政婦の姿が実に明るく生き生きと描かれているのが印象的でした。


●名画の余韻を胸に旅のフィナーレ

それから、見た瞬間私の胸がドキッとしたのは「フローラ」。一見、顔もコスチュームも髪飾りも実に東洋的で、日本人か中国人かと思わせる描写。ところが、実際のモデルはレンブラントの妻のサスキア。正式な画題が「神のフローラに変身した妻サスキアの肖像」ということからも、そのことが分かります。要するに、レンブラントの若い妻への賛辞がそのまま絵になった作品といえましょう。

一方、「フローラ」とは対照的な印象を抱いたのが「タナエ」の絵。古代ギリシャ神話を題材とした作品のようですが、フローラの清純さとは打って変わって、退廃的といったら言い過ぎかも知れませんが、何か曲者を描いた官能的作品という感じがしてなりません。

レンブラント談義が長くなってしまいましたが、数々の「マドンナ」に出会えたことも心に残っています。いうまでもなくどのマドンナも清純で、幼子キリストもカワイイ。レオナルド・ダビンチの「リッタのマドンナ」、同じくダビンチの「レヌアのマドンナ」、ラファエロの「コネスタビレのマドンナ」、そして作者名を失念しましたが、もう一点。

最後に印象に残ったのが「ラファエロの回廊」。10年前にも見ているはずなのに全く記憶にありありません。ラファエロの回廊は、旧エルミタージュと新エルミタージュをつなぐ長い通路のこと。アーチ城の天井と、窓側と壁側の柱列の金色のフレームが、遠くまで幾重にも重なって奥行きを感じさせる構図。錦絵を織りなしている感じといったらよろしいか。カメラのデータをプリント・アウトした写真はまさに遠近法の見本のような画像。

世界に名だたるエルミタージュ美術館とも午後4時過ぎに別れを告げ、「血の上の教会」に立ち寄り、外観をカメラにおさめ、そのあとショッピングを楽しみ、旅の最終プログラム「フォークロア・ディナーショウ」へ。ロシア民謡やダンス、寸劇を2幕2時間鑑賞。8時半からはフロアーをかえて、フィナーレのフィナーレ、“最後の晩餐”。

料理や飲み物もさることながら、ピアノの生演奏を聴きながらの食事は感動的でした。高い天井の宮殿で、ローソクの灯が揺らぐテーブルでの晩餐は貴族になった気分。女性のピアニストも日本の楽曲も織り交ぜて愛嬌よろしく演奏。演奏曲のリクエストも受けたりして、1時間余に及ぶライブ・コンサートは、旅の終わりにふさわしいエンディング・アイテムでした。         《完/2010.6.2 本田眞哉・記


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