研修紀行 ⅩⅠ

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アジア文化交流センター2010夏の研修 ──

 
 ヨーロッパに“アジア”を訪ねる旅 Part Ⅴ
  

   修交150周年を迎えるポルトガルで

「天正遣欧少年使節団」縁の地を訪ねて⑧

   

●アヴェイロ駅の外壁にはアズレージョ

ジョアン3世の巨大な像の建つ広場の端から細い道を下って旧市街へ。曲がりくねった石畳の道を、車が来るたびに立ち止まってやり過ごしながら進むと、坂道の途中にロマネスク様式のカテドラル。11世紀ごろに建てられた建物で、ベージュ色の正面入り口はさながら要塞のような堅固な造り。また正面の祭壇は古めかしくてどっしりと落ち着いた雰囲気。壁面には日本の家紋のようなアズレージョが一面貼られていました。

カテドラルを後にして再び細い石畳と階段の道を下っていきます。RUA DE QUEBRA COSTAS と書かれた街路案内などを見ながら、一方で足下に気を付けながら歩を進めます。道の両側に土産物店などもありますが、覗く気になれません。足下不安のためでしょうか。20分ほど歩いて“平地”の広い賑やかな商店街にたどり着いてヤレヤレ。そこでしばらくショッピングを楽しんだのち数分歩いてレストランへ。時計の針は正午を少し回っていました。

レストランのソファには別行動の団員が一人掛けていました。ホテル出発時、気分が優れないということで、しかもかなりの距離を歩くスケジュールだったので、見学を取り止めて予めレストランへ行って本隊到着を待っていただく、という段取りにしておきました。拝見したところどうも状況は悪くなっているという感じ。話しかけてみても反応が鈍い。私が誰か判りますかの質問に対してもお答えがない。意識朦朧の状態といったらよろしいか…。三和田添乗員と相談した結果、緊急事態だということで救急車を手配。まず救急車が到着し、救急隊員が問診したり簡単な身体検査をしたり。しばらくして医師も到着し、緊急措置の後病院へ。

彼のことが心配ではありますが、本隊は食事をすませて出発。途中アヴェイロに立ち寄って夕刻ポルトに到着、というのがきょうの後半日の予定スケジュール。バスは1時間ほど走ってアヴェイロに到着。アヴェイロは運河の街。先ずはアヴェイロ駅へ。スゴーイ! 2階建ての駅の外壁にはアズレージョの絵が20面以上。3メートル×2メートルの大きさから、窓枠の飾りの小さなものまで、ベースの白壁に映えて実にきれい。描かれているのは地元の街の風景から、農業や漁業の営み、そして人物像等々。そうそう、昨夜泊まったブサコ・パレス・ホテル(旧宮殿)も絵になっていました。なお、この駅は隠居の身で、隣接するモダンな建築の新駅舎が現役活動中。


 

●本場で元祖「金平糖confeito」を購入

アヴェイロの運河には、肥料用の海藻を集めるモリセイロ(エッ、そば? いや、違います)と呼ばれる極彩色の絵で美しく飾られたが浮かんでいます。舳先がくるりと反り返ったボートで、ベネチアのゴンドラを思い出させるようなスタイル。どの船も明るい色彩のペンキで塗られ、運河の風景に色を添えています。モリセイロの起源は、紀元前12世紀ごろから地中海貿易で活躍したフェニキア人が、大西洋に進出して伝えたといわれています。このモリセイロ、夏場は観光用に転用されるようで、目の前の運河では観光客が10人ほど乗ってクルージングを楽しんでいました。


 運河沿いに菓子屋が2~3軒。アヴェイロ名物「オボシュ・モレシュ」を売っています。卵の黄身を砂糖で練った餡を薄い皮で包んだ菓子。最中のポルトガル版? 私は試食しませんでしたが、結構甘いようです。 それよりも私が探していたのは金平糖。語源はポルトガル語のコンフェイト (confeito) 。初めて日本に金平糖が伝わった時期については諸説ありますが、1550年(天文19年)にカステラ・有平糖などとともに南蛮菓子として伝えられたとされています。本場で金平糖を…、ありました、ありました。おみやげが買えました。知人が2~3年前でしたかポルトガルを訪れて、金平糖を探してもその時は見つからず、帰国後送ってもらったとのことでしたが、どういうことだったのでしょう。


 甘党各位は、お菓子を試食したり、おみやげの菓子を手にしたりして満足な表情。バスはきょうの宿泊地ポルトに向けて出発。入院した団員の情報が三和田君のケ-タイに入った模様。救急車に乗り込んだとき失っていた意識は取り戻したとのこと。ただ、どうしてそうなったかの原因については、現在検査の結果待ちということでした。まぁ一安心。1時間ほど走ってバスはポルトのホテルINFANTE DE SAGRESに到着。時計の針が4時半を回っても陽は高く、夕食のレストランに着いた7時半でも明るい状態。夕食後、ドウロ川縁の道を散策しましたが、対岸の建物のライト・アップが川面に映えてロマンチックでした。






 

《次号へ続く/2011.1.2 本田眞哉・記》


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