研修紀行 ⅩⅠ

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アジア文化交流センター2010夏の研修 ──

 
 ヨーロッパに“アジア”を訪ねる旅 Part Ⅴ
  

   修交150周年を迎えるポルトガルで

「天正遣欧少年使節団」縁の地を訪ねて⑨

   
 
  

●教会内部の荘厳はまるで真宗寺院の本堂
 

 8月27日金曜日。朝9時バスはインファント・デ・サグレス・ホテル前から出発。きょうは世界遺産の町ポルトを見学。ポルトは、ドウロ川河口の起伏に富む丘陵地帯に造られた、ポルトガルを代表する古都の一つで、河岸とその周辺に広がる歴史地区全体が世界遺産に登録されています。街の歴史は古く、その起源は5世紀以前にまでさかのぼることができるとのこと。「ポルト」という名称は、ローマ帝国時代にここがカーレ州を代表する港町(porto)であったことから付けられました。英語のportと同意。また、ポルトはポルトガルという国名の発祥の地。日本語化している「ポート・ワイン」のポートも、ワインの産地名ポルトから来ているのです。

 ホテルを出てから10分ほどでカテドラルに到着。カテドラルは市内で最も古い(12世紀創建)建造物。その後18世紀まで増改築が繰り返され、ロマネスク、バロックの様式が混合するポルトガル国内で最も重要な建造物の一つ。カテドラルのファサードは2つの四角い塔が両側に立っている構造で、全体にシンプルながら重厚な感じ。2つの塔はそれぞれドームを頂いています。また、塔には銃眼があり要塞化された教会だということも物語っています。堂内の金ピカの祭壇にはちょっと驚かされました。仏壇の荘厳と見まごうほど。聖母マリア様の立像の背後には金ピカの放射状の“光背”が設えられています。

 カテドラルは丘陵の最も高いところに位置しているため、市街地を一望の下に見ることができます。船が数多係留されている河岸、折り重なるオレンジ色の屋根また屋根。その向こうには抜きん出て聳える塔。高さ76メートル、18世紀に建てられたグレリゴスの塔。この旧市街地は世界遺産に登録されています。そのためかどうか、家の窓の周りは白色か緑色か茶色にしなければいけないとか。

 カテドラルを後にして、次なる見学地はサンフランシスコ教会。サンフランシスコ教会は、路面電車の終点(始点?)の近くの階段を上ったところにありました。重厚な石造り。現在は博物館となっており、礼拝などの宗教儀式には使用されていない教会とのこと。したがって、堂内の写真撮影は禁止。礼拝堂のいくつかの祭壇が見事と言いましょうか、凄いといいましょうか。前のカテドラルの金ピカの何倍かのバロック期の金箔細工。金箔の施された彫刻と言い、柱と言い、瓔珞?(ようらく)と言い、浄土真宗の本堂も顔負け。
 

 

●歴史を誇るサンデマンの酒蔵

 金箔攻めに圧倒された印象を抱きながら、バスに乗りドウロ川の対岸へ。ドウロ川には4本の橋が架かっていますが、バスはドン・ルイス1世橋を渡り対岸のヴィラ・ノヴァ・デ・ガイア地区へ。ドン・ルイス1世橋は2階建てのアーチ橋で、ユニークなフォルムをして存在感を誇示しています。橋の幅は8メートル、長さは下層で174メートル、上層ではその倍以上の395メートル。この差は、川の両岸の谷の深さによるもの。上層は歩行者と電車用、下層は自動車と歩行者用になっています。エッフェル塔を建てたギュスターヴ・エッフェルの弟子の一人、テオフィロ・セイリグが設計し、1881年から1886年の間に建設されたとのこと。

 橋を渡ってすぐ右折、河岸通りを少し進むと左手に「SANDEMAN」の大きな看板。ポート・ワインの製造販売の大手。振り返って川の対岸を見ると、歴史地区のカラフルな家々の“段々畑”。幸い順光、これをバックに記念撮影をしましょうということになり一同整列、ハイ、チーズ! 意外とよく車が通る河岸通りを横断してサンデマンの酒蔵内へ。4段積みのワインの樽が両側に並ぶ中を奥へ進むと、黒いマントに黒い帽子をかむったガイド嬢がお出迎え。この黒いマントに黒い帽子の服装は、スペイン南部のアンダルシア地方の服装。なぜポルトガルでスペインのコスチュームなのかという疑問に対しては、スペインのシェリー酒「ヘレス」の醸造元が、同じ経営者だということが答えのようです。

 暗い酒蔵の中には熟成を待つワインが詰められた樽があちこちに積み上げられていました。その樽の鏡面には、黒いマントに広鍔の黒い帽子のシルエット姿が描かれその下に「SANDEMAN」と 「PORTO」の文字がプリントされていました。文字といえば、それよりももっと気になる文字としるしが書かれたプレートが、蔵の入り口と蔵の中の壁にありました。
 

私の目線より高いところのプレートには、横線とそれを示す指さしマーク?、そしてその下に「CHEIA EM 23 DE DEZEMBRO 1909」の文字。意味は「1909年12月23日の洪水」。また、目線より低い位置のプレートには、同じく横線と指さしマークと「CHEIA EM 3 DE JANEIRO 1962」の文字。こちらは1962年1月3日の洪水ではここまで浸水しましたよ、教えてくれています。1909年の時は蔵の土間上180センチほど、1962年のケースでは同じく約150センチの浸水があったことを物語っています。その時ワインの入った樽はどうなったのでしょう。あちらでプカプカ、こちらでプカプカ、ぶつかり合ってゴツンゴツン? 質問することを忘れましたが、まぁ余計な心配ですかね。
 

見学の最後には、定番、おみやげ品の販売。そうそう、ワインの試飲も。いわゆる赤ワインとリッチ・ゴールドのワインがそれぞれのグラスに入ってテーブルの各席に。一口いただいたものの、下戸の私には味はよく分かりません。ただ、飲みやすいワインだな、というのが私の感想。ということで、おみやげもおつき合いにワインを1本購入。家内は、サンデマンのトレード・マークの黒いハットに黒いマントがひどく気に入った様子で、孫のおみやげに黒マントを購入。

 団員の中には、ワインの試飲で上機嫌になった御仁もありましたが、悪酔いしないうちにワインセラーと別れを告げ、再びドウロ川を渡り川沿いの旧市街地区・リベイラ地区の散策へ。快晴に恵まれ強烈な陽射しを浴びて一汗かくほど。アーチ型のドン・ルイス1世橋を仰ぎ見、紺碧の空を背景に無秩序に積み上がっている色とりどりの家々をカメラに収めつつ足を運んで行くと、道端に露店が数店出店。女性軍がお値打ちな布製品を見つけて値段交渉。






 

《次号へ続く/2011.1.2 本田眞哉・記》


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