修交150周年を迎えるポルトガルで
「天正遣欧少年使節団」縁の地を訪ねて⑪
●4月25日橋上からキリスト像を活写
8月28日土曜日。きょうは事実上旅の最終日、快晴。見学先は天正遣欧少年使節団が訪問・滞在したという、ユネスコの世界遺産になっているエボラ。因みに、このエボラはエボラ出血熱とは全く関係ありません。午前9時ホテル前を出発。リスボンの東約130キロメートルのところ、バスで約2時間の道のり。出発して約20分後、バスはテージョ川に架かる4月25日橋にさしかかります。上段の車の通る橋梁部分は6車線で川から80メートルの高さ。リスボン側では高速路線のA5、A1、A8と接続し、反対の南側アルマダ地区でA2に接続。通行料金は、アルマダ方面へは無料ですが、リスボンへ入る方向では1.35ユーロ徴収されるとのこと。
下段は複数の鉄道の通る部分で、水面からの高さは70メートル。橋全体の長さは3.5キロメートルで1966年8月6日に開通。建設したのは、サンフランシスコの金門橋を架設した会社と同じ会社。架けられた当初は、独裁者アントニオ・サラザール首相の名に因んで、サラザール橋と呼ばれていたとのこと。ところが、1974年4月25日のカーネーション革命でサラザールの独裁政権が倒され、民主主義共和制に変わったため、橋の名前も4月25日橋に改名。
橋を渡り始めて川面を見ると、右手奥の川の中にベレンの塔が浮かんでいるように見えます。少し手前には発見のモニュメント、そして視線を少し右に振るとジェロニモス修道院が眼に入ります。4日前、リスボンで最初に見学したところを80メートル上空から観察。位置関係がよく把握できます。橋を半分ほど渡ったころから、進行方向左手の対岸に建つキリスト像がだんだん近づき大きくなってきます。
台座からキリストの頭までの高さは110メートル、キリストの背の高さは28メートル、両手を広げた長さも28メートルあるとのこと。いつかテレビか本か、どこかで見たような気がする像だな、と脳ミソの中を検索していると、ブラジルのリオデジャネイロにもよく似た像がありますとガイド嬢。リオの方が少し大きく歴史もあり、表情も若干違うとのこと。ここでは、キリストの顔が少し下を向いて、リスボンの町を見守っているように見えます。
この像は1959年サラザールの独裁政権時代に造られ、台座からキリストの足下までエレベータで上ることができるとのこと。カメラに収めようと左側の席に移り、シャッター・チャンスをうかがうのですが、なかなか難しい。逆光線のうえ、近づくにつれかなりの仰角になり、おまけに、メイン・ケーブルに橋桁を吊っているハンガー・ロープが邪魔をしてボタンを押すタイミングが取りにくい。ハンガー・ロープの隙間をねらったり、メイン・ケーブルの谷が来るのを待ったりして、どうにかモノになりそうな2~3ショットを撮ることができました。
●アレンテージョはコルク樫とオリーブ畑と葡萄畑
高速道路A2はテージョ川を越えてアルマダ地区に入ります。ここはアレンテージョ(テージョ川の向こう側の意)地方の入り口。目指すエボラはそのエリアの中心にあります。3車線の素晴らしい高速道路を10分ほど走ると窓外に緑樹が飛び、果てしなく広がる光に満ちた田園風景が展開します。アレンテージョの丘陵にはオリーブ畑やコルク樫の大農園が果てしなく続きます。さらに進むと高速道路の両側には広大な葡萄畑も。収穫した葡萄で葡萄酒を生産。葡萄酒は赤と白のマスカットのワインで、赤が生産量の65%を占めるとのこと。
しばらく走ると、緩やかな起伏のある畑といいましょうか、丘陵といいましょうか、そこに大小様々な木が不規則に植えられていました。“♪この木何の木、気になる木~”と思ったら、コルクの木でした。植えてから25年から30年ほど経つと、年輪の周りに自然にコルクができるということです。木の幹の下の方に6~7センチの厚みができてきたら、切り込みを入れて手で剥がし、その後9年経つとまた厚みができるのでまた剥がす、9年ごとに剥がすことができるとのこと。中には樹齢300年、400年の木もあるとか。コルクはワイン・ボトルの栓や防音・断熱材として活用されています。ポルトガルのコルクは、紀元前にローマ人がコルク樫の木を持ってきて植えたのが始まりで、今はアレンテージョのコルクの生産量は世界の中で最高だそうです。
コルク樫の木のあるサービス・エリアで途中休憩。コルク樫の木の生態を間近に見たり、木に手で触れたりすることができました。コルク樫やオリーブの灌木の茂る丘陵や、葡萄畑の広がる平原を走ること1時間余、バスはエボラに到着。5.8キロメートルの城壁に囲まれた市街地の散策。まずは坂道を登って城壁の切れ目からヴァスコ・ダ・ガマ公園に入り、彼のモニュメントに拝謁。後にインド総督になった彼の像は世界各地に置かれています。彼は国王マヌエル1世の命を受けて1497年アフリカ南端「喜望峰」を探索到達、さらにインドにまで足を伸ばし、いわゆる「インド航路」を拓いた人物。彼は「ポルトガル海上帝国」の基礎を築いたのです。
《次号へ続く/2011.1.2 本田眞哉・記》