修交150周年を迎えるポルトガルで
「天正遣欧少年使節団」縁の地を訪ねて⑫
●天正遣欧少年使節団ゆかりのエボラ大聖堂
白を基調とした家々が連なる明るい印象の小径を通って市の中心「ジラルド広場」へ。エボラ奪回の英雄ジラルド・センパボルにちなんで名付けられた広場。正面に聖アンタオン教会が見える広場には、花市場かと思われるほど沢山の花が入った大鉢がビッシリ並んでいました。この広場には8つの水の出口を持つ水場がありありました。その訳は、この広場には8本の道路が繋がっているため、とか。地図を見るとなるほど完全な放射状ではありませんが、8本の道路が広場から延びていることは間違いありません。現在は市民の憩いの場となっていますが、16世紀中頃には異端者の公開処刑が行われたといわれます。
ジラルド広場から再び白と黄色の建物が美しい商店街の小路を歩くこと数分、大聖堂の前へ出ました。城壁に囲まれた旧市街全体が1986年に「エボラ歴史地区」の名称で世界遺産(文化遺産)に登録されましたが、ここはその重要ポイント。大聖堂は両脇に塔を配した要塞かと思われる重厚な建物。12~13世紀に建てられた、ゴシック様式とロマネスク様式が混ざった建物。正面入り口は12使徒像付きで幾重にも迫り出したベージュ色のリブ・ヴォールト方式。重厚さの中に暖かさを感じさせます。
中へ入ると目の前に大きなパイプオルガン。天正遣欧少年使節団は、1582年(天正10年)2月20日に長崎の港を出航し、マカオ・ゴアを経て、喜望峰を廻りで2年半後にヨーロッパに上陸。1584年にここを訪れています。そう、その折りに伊東マンショと千々石ミゲルがこのパイプオルガンを弾いたのです。この演奏を聴いたエボラ市民はいたく感動したといわれます。その時のパイプオルガン、420年経った今でも健在。使節団はここに8日間滞在。使節団によってヨーロッパの人々に日本の存在が知られたわけで、その貢献は甚大。なお、使節団はグーテンベルク印刷機を持ち帰り、日本で最初の活版印刷を行ったといわれます。
大聖堂の中さらに歩を進めると、金箔の龕(がん)?の中にマリア像。受胎告知されたマリア像とのことですが、お入りになっている龕といいましょうか、厨子といいましょうか、祠といいましょうか、それはまるで金仏壇のよう。柱といい、屋根といいぎっしりと彫刻が施され金箔が押され、背面の内壁にも唐草模様らしき絵柄が彫られ、全面金箔が押箔されています。どう見ても豪華なお厨子・仏壇といった感じ。九州のキリシタン大名、大友宗麟・大村純忠・有馬晴信の名代として派遣された少年使節団、幼少の身ながら立派に役目を果したこと改めて知って、何かジーンと胸に来るものがありました。
●ロイオス修道院でほのぼのと最後の午餐
そんな思いを胸に抱きながら大聖堂を後にしました。少し歩くと視界が開け、神殿の遺構らしきものが真っ青な空を背景にくっきりと浮かび上がっています。ン?ギリシャ神殿?
いや、ローマ神殿かな? ここはポルトガル、どうして? 2世紀末にローマ人によって造られたコリント様式の「ディアナ神殿」だったのです。イベリア半島の中では最も保存状態のよいローマ遺跡の一つとのこと。14本の柱が残っていて、下部は大理石、他は御影石でできています。中世には要塞として使用されたとか。
神殿を通り過ぎた先は展望素晴らしい公園になっていました。もうずいぶん見慣れてきましたが、オレンジ色の屋根、白い壁の家並みが眼下に広がっています。ちょうど正午、教会の鐘の音が響き渡って異国情緒満点の雰囲気。昼食は1時からということで、一旦解散自由行動。団員各位は、スーベニール・ショップが軒を連ねる商店街を散策。思い思いに、それぞれにおみやげ品を手にしてセレクト。ほどほどに買い物ができたようです。
昼食は、ディアナ神殿の目と鼻の先に建つロイオス修道院で。1485年にできたこの修道院、現在はポサーダ(国営ホテル)に改装され活用されています。準備ができるまで待ったロビーには、アズレージョが飾られていました。置かれている調度品や装飾品の一つひとつ、目につくもの全てに歴史の重みが感じられます。案内されてレストランへ。レストランは中庭に面した回廊。これまた素晴らしい雰囲気。何となく高貴な気分になって…、お味も最高。
エボラはローマ時代から栄え、特にルネッサンス期では活動の中心になった街で、ロマネスク、ゴシック、マヌエル、ルネッサンス、バロックなど様々な様式の建物が混在する歴史美術館みたいなところ。イエズス会が勢いを持ち、エボラ大学も創設されたりして、日本の少年たちが立ち寄った時期はエボラが隆盛を誇っていたころ。1582年(天正10年)といえば今から428年前。私ごとで恐縮ですが、自坊・了願寺の開基(天台宗から真宗に転派しての初代)が亡くなったのがその1年前の1581(天正9)年。
全くと言ってよいほど国際化されていない当時の日本の13~14歳の少年がヨーロッパへ、ポルトガルへ行くなんてことは、私たちの想像を絶する大変なことだったのでしょう。それに引き替え、現在は10数時間でひとっ飛び、何とも複雑な心境。こうしたことを現地で学ぶことができ、今回の旅のテーマ「ヨーロッパに“アジア・日本”を訪ねる」の意義が一段と明らかになった思いです。了願寺16代目の私が、16世紀の少年達が国際交流を堂々と成し遂げた歴史のロマンを、21世紀の眼で確かめしたためた紀行の筆、否、キーボード打鍵をここで納めたいと思います。
合掌
《完/2011.1.2本田眞哉・記》