2001年8月27日月曜日、モーニング・コールは6時30分。朝食は6時から
OK。出発は8時30分。ソフィテル・ロイヤル・アンコールのバイキング朝
食はすばらしい。和食も洋食も品数豊富で味もよろしい。前日のディナ
ーも和洋両様のバイキングでしたが、これまた超デラックス・メニュー
で、さすがの倭人グルメたちもその美味に堪能したようです。日本人シ
ェフがいるのだろう、ともっぱらの噂。
満腹の腹をたたきながら、いよいよ今日はアンコール・ワットの踏査研
修。おっと、その前にバンテアイ・スレイの見学。アンコール・ワット
は太陽光線の関係で午後の方がよいということで、午前中はバンテアイ
・スレイへ行くことになりました。バンテアイ・スレイはシェムリアッ
プから北東へ約40kmの地にあり、バスで約1時間20分。道は狭く整備され
たとはいい難いが、思ったよりは楽な道行きでした。途中窓外には、崩
れかかった遺跡あり、田園風景あり、椰子の葉で葺いた屋根の高床式民
家ありの風景が展開し、退屈しませんでした。
着いたところは、とある集落の広場といった感じ。振り向くと、こぢ
んまりした石造の寺院らしき門。バンテアイ・スレイです。まずは東門
の破風の彫刻に目を奪われます。実に精緻といおうか緻密といおうか、
すばらしい石彫。
東門を入ると、長さ約100mのラテライトの参道。参道の両側にはリン
ガ(男根)をデフォルメした像が立ち並ぶ。そして、ところどころにヨ
ニ(女性器)形の台座。ジャワ島はプランバナン平原のロロ・ジョング
ラン寺院で見かけたものと全く同じ。このことからも、このバンテアイ
・スレイはヒンドゥー教寺院であることが分かります。
▲第二周壁の破風/バンテアイ・スレイ
参道の突き当たりにある第一周壁の門と、さらにその先にある第二周
壁の門の破風は彫りの深い石彫で飾られていました。第二周壁の門の破
風には、ヴィシュヌ神の妻ラクシュミーに、象が両サイドから聖水をか
けているシンメトリーの構図の浮き彫りがありましたが、これは特筆す
べき最高の造形作品。
バンテアイ・スレイは、967年アンコール王朝摂政役の王師ヤジュニャ
ヴァラーハの菩提寺として建立されたといわれています。周囲400mの
小さな寺院。第三周壁の中には、中央祠堂(ちゅうおうしどう)を中心に左右
に南塔・北塔を配し、手前には左右二つの経蔵(きょうぞう)が建っていま
す。祠堂身舎には門の破風にも増して精細な彫刻が施されていて、まさ
にクメール芸術の至宝。
特に有名なのが北堂の壁龕(へきがん)に立つデヴァター像。かつて、作
家のアンドレ・マルローが若き日、このデヴァター像に魅せられて盗掘
しようとして逮捕された、というエピソードもあります。人呼んで「東
洋のモナリザ」。魅惑的な女神像ではあります。「バンテアイ・スレイ」
は「女の砦」の意味だそうで、宜(むべ)なるかな。
●変わらぬアンコール・ワットの雄姿
町のレストランで昼食をすませ、ホテルへ戻って“シエスタ”。午後
2時ロビー集合で、いよいよアンコール・ワットの踏査研修に出発。胸
をときめかせてバスに乗ったのはよかったが、ホテルの門を出ると間も
なく、一天にわかにかき曇り疾風をともなって猛烈な雨。近くの木々も
家も雨しぶきにかすんでいます。街灯も夜になったと間違えて点灯。ス
コールだ。運転手は前が見えないためゆっくり、ゆっくり。6kmほどの
距離を20分ほどかけてようやくアンコール・ワット参道西正面入口に到
着。
雨はすでに小降りになっており、傘を持ってバスを降りたものの、参
道途中で不要に。参道から遠望する限りでは、アンコール・ワットは32
年前とほとんど変わっていません。懐かしい! 参道の左側半分が陥没
しているのも以前と全く同じ。強いていえば、参道のナーガ(蛇)の欄干
が破損している部分が以前より多いかな、と思われるぐらいのこと。
しばらく進むと、西塔門手前の参道が解体修理中でした。塔門を額縁
にして中央祠堂をセンターに入れようとファインダーを覗いていると、
黄衣を着た仏教僧が出現。これまたグーッ、と2〜3ショット。はて?こ
こは仏教寺院だっけ。塔門の南側へ進むと、一面八臂のヴィシュヌ神。
因みに、ヴィシュヌ神は一般的には四臂像ですが、ここはどういうわけ
か八臂像。赤い布を袈裟懸けにした身の丈4mの大神像。いわずもがな、
やはりここはヒンドゥー教の神殿だったのです。
アンコール・ワットを創建したのは、アンコール王朝のスールヤヴァ
ルマンU世。時代はアンコール・トムのバイヨンより半世紀ほど早く12
世紀中ごろ。アンコール・ワットは南北1,300m、東西1,500mの環濠に
囲まれた壮大な敷地内に建立された、神のための一大石造宮殿。東西
200m南北180mの第一回廊で囲まれた中に、一段高く第二回廊(100m×
115m)が構築され、さらに高くせり上がったところに第三回廊、といっ
た構造になっています。そして、第三回廊の四隅にはパイナップル型の
祠堂が配置され、中心には高さ65mの中心祠堂がひときわ高くそびえ立
っています。
この5基の塔は真上から見ると、ちょうどサイコロの「五」の目のよう
に整然と配置されています。そして、中心祠堂は世界の中心で、須弥山
(しゅみせん)を象徴しているといわれています。さらに、回廊はヒマラヤ
連峰を、環濠は無限の大洋を意味しているとか。
▲聖池の水面に映える中心塔群
この5基の塔ですが、参道正面から見ると後ろの2基は隠れて3基に見え
ます。参道から左に階段を下り聖池の畔まで行くと、5基の塔が全部見え
ます。5基の塔が水面に映え、石造大伽藍とともにしっとりとした潤いの
ある風景を呈していました。団員一同ここで1枚「はい、チーズ!」。
ガイド嬢は参道に戻らず、池の畔の道を第一回廊北西角の階段へリー
ド。途中土産物屋が軒を連ねていましたが、その奥に仏教寺院らしきも
のがあり、黄衣の少年層の姿が見えました。なるほど。先ほど西塔門で
出合った仏教僧の謎が解けました。
さあ、いよいよ第一回廊に到着。まずは西面北側の壁彫を見学。ここ
はラーマヤナ物語の戦争の場面。壁面いっぱいに、ラーマ王子の猿軍団
と魔王ラーヴァナの悪魔軍との戦いの様子が、躍動感あふれるタッチで
描かれています。いつの時代から見学者が手を触れたのか、黒光りして
いる部分もあります。32年前と全く同じ。数10mも続くレリーフも、テ
カリ加減も。
ただ、今回惜しむらくは、陽光不足。第一回廊西面は、西日が射すと
レリーフが文字通り浮彫になり、また列柱の影も効果的なシーンを醸し
出すのだけれど、今回は雲が厚く残念ながら満足できる画像は期待でき
ないようです。
第一回廊と第二回廊の橋渡しとなる十字回廊には、ここを訪れた森本
右近太夫一房の落書きがあるという。今回もガイド嬢の説明を受けまし
たが、墨書きの上をまた墨でこすったようになっており、よく判読でき
ませんでした。ガイド・ブックによれば、森本太夫が訪れてから80年あ
まり経ってからアンコール・ワットへ出かけたもう一人の日本人がいた
という。
その人は、長崎の通訳島野兼了氏。三代将軍家光の命を受けて、仏教
の聖地「祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)」の視察が目的だったとか。オランダ
船に乗って航海の末、着いたところはインドではなくてカンボジアだっ
たのです。彼は、アンコール・ワットを祇園精舎だと思いこんで見取り
図を作ったといわれています。その見取り図はいまも写しが存在し、明
治時代の学者によってアンコール・ワットであると証明されたそうです。
さらに、ウドン周辺やプノンペンには日本人町が形成されていて、ア
ンコール・ワットに参拝した日本人も少なくなかったとか。飛行機の便
のよい現在でも、アンコール・ワットへ出かけるには、身体的・時間的
・気候的・経済的条件を考えると決断に時間を要するのに、17世紀や18
世紀に幾人かの日本人が彼の地を訪れていたとは驚きです。脱帽!
合掌。 【To be continued. Written by S,HONDA】
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