■研修紀行 U

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アジア文化交流センター01夏の研修──

  ホーチミンシティーとカンボジア
     アンコール遺跡踏査研修紀行(10)



  ●シェムリアップからプノンペンへ

 アンコール・ワット踏査研修円成が誘う熟睡から目覚めた8月28日の朝
は爽快な気分。静かなダイニングでバイキング朝食をいただき、超豪華
「ソフィテル・ロイヤル・アンコール」ともお別れ。飛行機の出発時刻
が繰り上がったということで、早朝6時40分にホテルを出発。

プレジデント航空TO107便は7時50分テイク・オフ。機材名は定かでは
ありませんが、翼が機体上についた小型機。双発のターボ・プロップエ
ンジンで、「ブーン・ウーン」という共振音が眠気を誘います。

ウトウトとしていると、早くもエンジンの回転数が落ちました。まだ
20分ほどしか飛行していない、プノンペン到着には早すぎると思ってい
ると、草原の中の滑走路に着陸。定員30人ほどの半分ほどが入れ替わり
ました。隣の席に乗り込んできた人に尋ねたら、ここはバッタンバンの
空港とのことでした。どうも、利用客の動向で経由地が追加されるよう
です。なるほど、それで出発時刻が早まったんだ。おまけにプノンペン
到着も当初予定より1時間余遅れて9時40分。JICAカンボジア訪問のアポ
イントメントを、余裕を見て11時にしておいて正解でした。


       ▲プノンペン市内のスナップ

まずはホテルでチェック・イン。ホテルは独立記念塔の南約1qのとこ
ろにあるロイヤル・プノンペン・ホテル。ソティアロス通りに面してい
ますが、あまり目立たないホテル。パサック河畔まで広がる広大な敷地
を有し、テニス・コートやゴルフ練習場などのアウト・ドア施設を備え
た緑豊かなリゾート・ホテル。国際協力事業団(JICA)カンボジア事務所
までは数qとのことで、10時45分ホテルを出発。

JICAカンボジア事務所は市の中心部、住宅地の中といった感じのとこ
ろにありましたが、周辺街路の整備は今一つといった状況でした。そも
そも、今回JICAカンボジア事務所を訪問することができたのは、自坊ご
門徒の西川力氏のご縁があったからです。西川氏は、樺部電力に在籍
し電源開発を担当。2年前、JICAの技術協力専門家派遣事業の一員として
派遣され、カンボジア鉱工業・エネルギー省の電力セクター計画に携わ
っていらっしゃいます。その西川氏の仲立ちで今回の訪問・交流が実現
したわけです。


  JICAカンボジア事務所訪問

私のねらいは、アンコール・ワット等の遺跡踏査にプラス・ワン、少
し角度を変えて日本の国際協力事業の実際を現地で学ぼうということで
す。事前に日本から西川氏や事務所の小泉幸弘次長にインターネットの
Eメールで訪問のお願いをし、日程調整をしました。やはりインターネッ
トは便利。時差も昼夜も関係なく、ほんの数秒でカンボジアまでメール
が届きます。しかも超低料金で。10年前ならば、レター・ペーパーにタ
イプライターで打って、航空便の封筒に入れ、郵便局の窓口へ出向いて
目方をはかって切手を貼って…大変な作業でした。しかも到着まで1週
間、返事が来るまでまた1週間。

さて、事務所の二階には席が用意されていました。残念ながら、西川
氏は日本への帰国休暇が以前から決まっていて不在。でも、氏から私た
ちの訪問の趣旨が懇ろに伝えられていたため、松田教男所長と小泉幸弘
次長が丁重に対応してくださいました。


         ▲向かって右から小泉次長・松田所長・筆者

最初に、松田所長からカンボジアにおけるJICA事業の概要について説
明がありました。カンボジア和平達成後、1993年3月にJICAカンボジア事
務所を開設。以後、積極的に各種技術級力、無償資金協力関連事業を展
開しているとのことでした。重点分野としては、@グッド・ガバナンス、
A経済振興のための環境整備、B経済・社会インフラの整備、C保健医
療の充実、D教育の充実、E農業・農村開発、F地雷除去・障害者支援、
G環境資源管理の8項目を設定しているとのこと。そして、それらに対す
る具体的な取り組みについても資料を示して縷々ご説明いただきました。

一方、カンボジアの歴史、自然環境、文化・社会・経済情勢などにつ
いても、大変興味深い内容を長時間にわたりレクチャしていただきまし
た。1970年3月のロン・ノル将軍によるクーデターに始まったカンボジア
の内戦・混乱は、1991年10月のパリ和平協定締結に至るまで20年余に及
んだとのこと。なかでも、3年8か月にわたるポル・ポト政権の常軌を逸
した“残虐施政”の話には身の毛のよだつ思いがしました。僧侶・医師
・学者・教師等、いわゆるインテリをはじめ、何百万人の国民が虐殺さ
れたといわれます。そのため、人材不足の後遺症がいまだにカンボジア
社会に傷痕を残しているとか。

新生「カンボジア王国」誕生から8年を経過。その間、カンボジアは国
際社会からの援助を受けながら経済復興につとめてきましたが、はかば
かしく進んでいないのが実情。東南アジアで最貧国の一つに数えられて
いるようです。一般公務員の月収はUS$20。しかも給料の遅配は慢性化し
ているとか。反面、プノンペンでの生活費は月20,000円。そこで、半日
働いて半日はアルバイトで稼ぐのが日常化。したがって、行政機能は著
しく低下してしまう、といった塩梅。

松田所長さん、小泉次長さんには予定時間をオーバーして熱心に解説
いただきました。深甚の謝意を表するとともに、異国でのご自愛とご活
躍を念じ事務所を後にしました。JICAカンボジア訪問は、アジア文化交
流センターにとって大変有意義な研修となりました。

 ●戦乱から復興するプノンペンの町

午後は気楽に市内見学。まずは「プノンペン」発祥の地ワット・プノ
ンへ。「ワット」は寺、「プノン」は丘の意。伝説によれば、14世紀末
に「ペン」という富裕な婦人がメコン川に流れ着いた仏像を見つけ、近
くの丘に寺を建てて安置したという。その寺が「ワット・プノン」。そ
して、その丘は信心深い婦人に因んで「ペン婦人の丘=プノンペン」と
呼ばれるようになり、のちに町の名前になった、とさ。


      
▲ワット・プノン

ワット・プノンの本堂にはタイ風の仏像が安置され、にぎやかな荘厳
(しょうごん)
がしつらえられていました。団員一同パーリ文三帰依でお勤
めをし、しばし休息。帰りしな、伝説のペン婦人の小さな祠
(ほこら)の前
を通りましたが、燻煙もうもうとして人気のほどを物語っていました。
丘の麓まで降りると、そこには見覚えのある大きな花時計がありました。
おそらく戦乱で破壊されたでしょうが、今は32年前の私の脳裏の残像と
全く同じように時を刻んでいました。

続いての見学は王宮。王宮はトンレサップ川とメコン川の合流点近く
の広大な敷地に建っています。戦乱のためさぞかし荒れているだろうと
思いきや、これまたきれいに整備されていました。メインの即位殿をは
じめいくつかの建物が、かつてと同じように金色と黄色に輝いていまし
た。一時中国で亡命生活を送っていたシハヌーク国王は、1991年帰還し
て以来ここにお住まいだそうです。ガイド氏はかつてと同じように指さ
して、「あれが国王のお住まいです」と。

夕食はタイ風カンボジア料理。レストランはその名も「チャオ・プラ
ヤ」。オープン・エアのバイキング。アトラクションもラーマヤナ物語
でしたが、タイ風。何か食が進まなかったのは私の体調のせいでしたで
しょうか。
合掌。         【To be continued. Written by S,HONDA】



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