●「寝釈迦」との出会いあれこれ
私にとって「寝釈迦」との出会いは今回が4回目。最初の出会いは、
1968(昭和43)年12月。釈尊入滅の地インドはクシナガル。静かな小公
園の中に沙羅双樹を配して建つ涅槃堂。靴を脱いで堂内に入ると、燈
明が揺らぎ香煙が立ち上っていました。明かりに照らされて金色に輝
くお顔、パッチリ開いた切れ長のお目、黄衣に包まれた身の丈15m余
の涅槃像が、頭北面西右脇に臥して安置されていたことを思い出しま
す。
因みに、「頭北面西右脇」とはお釈迦さまが入滅されたときのお
姿。頭を北にして、右脇を下にして臥せばおのずと顔は西を向くとい
うこと。お釈迦さまにあやかってか、死んだときは北枕に寝かせよ、
ということになったのでしょう。また逆に、生きている人間が北枕で
寝るのはよくない、とかいう俗説が生まれたのでしょうが、余り俗説
に振り回されない方がよろしいかと。いや、地球の磁力線の関係から
いうと、北枕で寝ることは身体によいとかいう説も…。
第2回目の出会いは、1969(昭和44)年1月。山田長政が造った日本人
町で有名な、タイの旧都アユタヤ。町の西部にあるワット・ログヤ・
スタ寺。お寺といっても、建物はなく廃墟アユタヤを象徴しているか
のよう。草原にコンクリート造りで、黄色く塗られた大涅槃像が横た
わっていました。身の丈28mの“露臥の大仏”。
▲バンコク/ワット・ポーの大涅槃像
「寝釈迦」との第3回目の出会いは、1982(昭和57)年8月、タイはバン
コクのワット・ポー(涅槃寺)で。ワット・ポーは、バンコク市内数ある
お寺の中で最大の敷地を持つ寺院。王宮守護のために建立された寺院で、
王宮の南に面しています。広大な本堂の中には巨大涅槃像が安置されて
いました。長さが49m、高さが15m。1793年に造像されたとのことです
が、レンガ積みにセメントを塗り金箔を押して仕上げたとか。寝釈迦の
足底には千輻輪相が彫られていましたっけ。
因みに、1982年はタイのラタナコシン王朝建国200年に当たり、各種記
念行事が開催されました。アジア文化交流センターと同朋学園名古屋音
楽大学は、ラタナコシン王朝建国200年を慶讃して記念演奏会を開催しま
した。「日本の歌と舞」と銘打った演奏会は、8月24日夕刻6時30分より
国立劇場大ホールで開演。
プログラムは、雅楽に舞楽、箏曲と詩吟。そして名古屋音楽大学生に
よる女声合唱。千数百名の聴衆が客席を埋め、名演奏にうっとり。王室
からはシリンドーン王女とソムサワリ皇太子妃がロイヤル・ボックスに
ご臨席になりました。私からお二人に、日本からのおみやげとして人形
をプレゼントしたことを思い出します。余談が長くなって失礼。
●北山石刻は秀麗かつ精巧
大足市街地に戻って、大足賓館のレストランで昼食。食事を済ませて
ロビーへ出ると、ショーケースを2〜3名の団員がのぞき込んでいます。
何があるのかと訊けば刃物とのこと。包丁や鋏、ナイフなどをセットに
したみやげ物。いくらか忘れてしまいましたが、なかなかの値段だった
との印象が残っています。
「“中国のゾーリンゲン”だな」と冗談を飛ばしていましたが、後刻
得た情報によれば冗談でなくマジ、そのとおりでした。大足が刃物の町
といわれる所以は石刻にあり、ということなのです。石窟を掘り石刻像
を造るには、当然ながら道具として金具が必要。そのために、金具の生
産技術が当地で発達したのも、これまた理の当然といえましょう。今で
もその伝統が残り、大足は刃物の町として勇名を馳せています。
ホテルを出てほどなくバスは北山公園の駐車場に到着。ローカル・ガ
イドの先導で石段を登ります。これが大変。何段あったか忘れましたが
かなりハード。登り詰めたところの石碑には「全国重点文物保損単位
北山摩岩造像」と記されていました。
北山の石刻群は、宝頂山の石刻群とはひと味違います。宝頂山のそれ
が雄大で壮観、しかも彩色豊かであるのに対して、北山は秀麗かつ精巧
で生き生きした像がいっぱい。1000年以上の星霜を経ながら、菩薩さま
は慈眼をもって私たちを見つめていらっしゃいます。北山には1万体近
い像が安置されているといわれます。
▲北山の仏湾長廊
宝頂山の「大仏湾」に対して、こちらは「仏湾長廊」。仏湾長廊は、
谷に沿った長さ500mの回廊。「回廊」ですから、オーバー・ハングの
岩であったり、あるいは人口の屋根であったりしますが、その部分はも
ちろん有蓋です。その回廊の右側に龕や窟が並んでいて、その中に菩薩
さまや御経の変相図が彫られています。
《次号へ続く/2002.12.1本田眞哉・記》