■研修紀行 V

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アジア文化交流センター02夏の研修──

 中国・世界遺産

  九寨溝と黄龍、大足石刻群調査研修紀行 E


 核燃の「もんじゅ」と「ふげん」

いささか蛇足の観を免れませんが、「ふげん」「もんじゅ」と仮名
表記された新聞記事をご覧になったことはありませんか。2002年11月
16日の中日新聞には、奇しくも両者の記事が並んで掲載されていまし
た。一つは、核燃の福井県にある新型転換炉「ふげん」発電所のたび
重なるトラブルの件。もう一つは、同じく核燃の高速増殖炉「もんじ
ゅ」の研究開発費を飲食費に流用した問題。ご存じのように「もんじ
ゅ」は1995年にナトリウム漏えい事故を起こしています。

仮名表記になっていますから、一般的にはその語源について余り知
られていないようですが、言わずもがな、もとは「普賢菩薩」「文殊
菩薩」です。先日、仏教学者でしたか、あるいは仏教徒を名のる方で
したか、事故続きの原子炉の名前に「ふげんと」とか「もんじゅ」と
かいう菩薩の名を使ってもらいたくない、というご意見が報道されて
いたことを思い出しました。私も同感です。科学技術がいかに進歩し
ようとて、人間の知恵はあくまでも相対的人知、文殊の智慧には及び
ません。

ところで、この「ふげん」「もんじゅ」両原子炉は特殊法人「核燃
料サイクル開発機構(核燃)」の所管。核燃の事業はどんなのかとホー
ムページを検索してみました。機構の組織図や事業展開が詳しく掲載
されていました。事故の概要や原因究明、安全点検・安全対策などに
ついては、特に力を注いで情報を提供していました。

そうしたなか、「ふげん」のページを開いてビックリ。なんと、あ
の峨眉山・万年寺の普賢菩薩像の写真が載っているではありませんか。
前述の万年寺参拝の折り、私は菩薩像をカメラに収めたと思い込んで
いましたが写真が見当たりません。ビデオカメラでの収録を勘違いし
ていたのでした。そこで、核燃のホームページからお借りしてここに
載せさせていただきます。

   
       ▲普賢菩薩騎象銅像(核燃HPより)


 「王舎城の悲劇」を語る第245窟

話がわき道にそれてしまって恐縮、「北山」へ戻りましょう。第
245窟は「観無量寿仏経変相」。私たち真宗をはじめ、浄土教系仏教
徒にとってはなじみ深い「観無量寿経」を石刻で表したもの。晩唐に
造られたもので、龕高4m、間口3.6m。中層に阿弥陀仏を中心に、左
に観音菩薩、右に勢至菩薩を配した阿弥陀三尊が安置されています。
上層には「天堂」として天上界が彫られ、さらにその上の龕頂には彩
雲や飛天、箏・笙・琵琶などの楽器が優雅さを添えています。

 下層段には「王舎城の悲劇」の石刻。ご存じのように、王舎城の悲
劇は観無量寿経が説かれる機縁になった故事。


 インドはマカダ国の名君・頻婆娑羅王(ひんばしゃらおう)とそのお妃・
韋提希(いだいけ)夫人との間には久しく子どもができなかった。二人は
お世継ぎが授かることを願って占い師に占ってもらった。すると、占
い師は「お二人には3年後にお世継ぎが授かります。しかし、そのお
子さまは近くの山に住む仙人が天寿を全うして死ぬとその生まれ変わ
りとして授かるのです」と。


 国王は3年後が待ちきれず、家臣に命じてその仙人を殺させます。殺
される直前、仙人は「私が太子として生まれ変わったならば、必ず仇
をなす」と言ったという。やがて占い師が言ったとおりお妃は懐妊。
国王が占い師に子どもは無事に生まれるかと訊ねると、占い師は「立
派な男のお子様です。しかし、そのお子さまは、生まれる前から王に
怨みを持っていますから、生まれたらきっと仇をなすでしょう」とこ
たえた。

 この話を聞いて国王は心に不安を感じ、高いところから林立する槍
の上に産み落として子としてしまおう、と計った。しかし、生まれる
べき縁あったお子さまはうまく槍の間に落ち、小指に軽いけがをした
だけで命に別状なし。太子は(あじゃせ)と名付けられた。



  ▲「観無量寿仏経変相」HP『石刻の美』より)

 悪友・提婆達多(ひんばしゃらおう)は、こうした出生の秘密を成長した
阿闍世太子に話したのです。信頼しきっていた親に裏切られた阿闍世
太子は、怒り心頭に発し、父王の殺害を企てるのです。提婆達多に唆
されてついに父王を殺し王位を奪い、母・韋提希を幽閉してしまいま
す。

 とらわれの身となった韋提希は、遙か耆闍崛山(ぎしゃくっせん)にまし
ます釈尊に救いを求めるのです。釈尊は目連尊者(もくれんそんじゃ)と阿
難尊者
(あなんそんじゃ)を直ちに王宮へ遣わし、自らも法華経の説法を中
座して山上より没して王宮に出でたもうたのであります。韋提希夫人
は、目連尊者と阿難尊者を侍したもう仏世尊を見たてまつり、自らの
身も心も世尊の前に投げ出し、罪の深さを懺悔し、み仏の慈悲を請う
たのであります。

 一方、阿闍世も前非を悔い、仏に帰依し、のちに大施主となり仏教
を外護したといわれます。阿闍世の迫害と韋提希の救いを求める熱意
が機縁となって観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)が説かれることになっ
たのです。そして親鸞聖人は、この王舎城の悲劇が真実の教えを凡夫
の地平に開く勝縁であると見抜かれたのであります。聖人のライフ・
ワークである『顕浄土真実教行証文類
(けんじょうごしんじつきょうぎょうしょ
うもんるい)
』の「総序」には

 浄邦縁熟(じょうほうえんじゅくして)して、調達(じょうだつ)(提婆達多)闍世
(じゃせ)(阿闍世)をして逆害を興ぜしむ。浄業機彰(じょうごうきあら)われ
て、釈迦、韋提(韋提希)をして安養(あんにょう)を選ばしめたまえり。

 と記されています。合掌。 《次号へ続く/2003.2.3本田眞哉・記》



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