6時のモーニング・コールで目覚めた朝は8月25日日曜日。気分爽快。
きょうは九寨溝へ向けてひたすら走る移動日。10時間以上要するとの
こと、きつい道行きが予想されます。が、反面、バスとドライバーに
わが身をおまかせ、と決め込めば気楽な1日となりましょう。
専用バスは午前8時ホテル錦江賓館前を出発。1時間ほど市内を走っ
て「成潅高速道路」へ。「成潅」は、その道路の始点と終点の地名、
すなわち成都と潅県の頭文字を取ってのネーミング。「東名」「名神」
と同じ発想でいかにも東洋的といえましょうか。イタリアの「太陽の
道」などというロマンティックな高速道路名と比べて合理的といえば
合理的ですが…。
高速道路は片側3車線のゆったりとした高規格道路。制限速度は時速
120q。バスのスピード・メーターをのぞき込むと120qを少々オーバ
ー。でも、道路幅が広いためかスピード感は100q以下の感じ。
▲成潅高速道路
最初のストップ・オーバーは「都江堰」。成都の西北56qの地点。
高速道路はまだ潅県までは開通していないため、都江堰ICで降りて一
般道へ。「トコウエン」。最初、ガイドの発音からは何のことかさっ
ぱり分かりませんでしたが、文字を見てな〜るほど。
都江堰は文字通り「堰(せき)」のあるところ。ガイドブックによれ
ば、ここには岷江(みんこう)に設けられた堰をはじめ、総合的な治水
・利水・潅漑などの工事跡があるとのこと。そしてこの水は成都平原
5,300?を潤し、今なお成都はその恩恵を受けているということです。
しかし、今回はその堰も潅漑用水も見学することなく、ガイド氏に
ご案内いただいたのはスーパー・マーケット。目的は酸素ボンベをゲ
ットすること。これから標高3,000m〜4,000mの高地へ向かうため、
高山病対策として酸素ボンベが必要なのです。因みに、都江堰の標高
は760m。そうそう、チベットの拉薩へ行った時も予め名古屋で酸素
ボンベを購入してスーツ・ケースに入れて持っていきましたっけ。
都江堰を後にして、バスは一般道をひた走ります。ひた走るといっ
ても、障害なくスイスイと進めたわけではありません。道路は舗装さ
れていて悪路というほどではありませんでしたが、潅県〜映秀〜?川
と北上するうちに交通渋滞が二度三度。
おびただしい数のバスやトラックが数珠繋ぎ。渋滞の原因はいろい
ろで、道幅が極端に狭かったり、一車線のトンネルで交互通行があっ
たり、時にはトラクターが狭い道でエンコして邪魔していたりして…。
いずれの場合も、謙譲の美徳を好まない?中国では、車が突っ込
み合いになってもなかなか譲り合うということをしない。上下線とも
全く動かなくなって10分、15分過ぎることも珍しくありません。都江
堰を出てから2時間後の渋滞では、遂に辛抱たまらず“オープン・ト
イレ”となったことも。
●中国は多民族国家
岷江沿いの道路はだんだん山岳地帯に入って行く感じで、対岸には
見上げるような山が迫り、路肩を踏むバスの車輪の下は断崖絶壁。
ヒヤリヒヤリ。ガード・レールはなく、ガード・ブロックの埋め込み
作業が進行中。
時計の針は午後1時半を指していますが、未だ昼食にありつけない
ようです。かなり狭くなった岷江の対岸には少数民族の集落。羌(チ
ァン)族かな? 山肌と同じような色をした家々が斜面にへばりつく
ように建ち並んでいます。
遠目に目立つのは白い丸。1軒に1個。そう、BS放送受信用のパラ
ボラ・アンテナのようです。いや、まてよ、重慶市内で聞いたガイ
ド氏の説明によれば、中国では一般市民がパラボラ・アンテナでBS
放送を受信することは禁止されているとのことだったのに…。ある
いは山間部の少数民族にはBS受信が特別に許可されているのかも。
▲パラボラアンテナが目立つ少数民族の集落
そもそも中国は56の民族から成る多民族国家。うち92%が漢民族。
そして、その他の少数民族55のシェアは8%。少数民族といっても
その人口はピン・キリで、最多1,560万人のチワン族から最少
2,300人のロッパ族までさまざま。
中国政府は爆発的な人口増を抑えるために「独生子女政策」を推
進中。いわゆる「一人っ子政策」。「子どもを産むのは一人でスト
ップすべし」というお上のお達し。この一人っ子政策は1982年に国
策として確立されたものですが、これがなかったら20年間に現在よ
り3億人近く人口が増加していただろうという見方が有力。
ただし、この政策の対象は漢民族のみで、少数民族には適用され
ません。少数民族のシェア8%ということから見れば至極当然のこ
とといえましょう。 しからば、漢民族の人が少数民族の人と結婚
した場合、2人3人と子どもを設けてもいいのでしょうか。ガイド氏
に訊ねてみましたが、答えは「…?」。因みに、この政策は2002年
9月1日から法制化されたそうです。
《次号へ続く/2003.3.30本田眞哉・記》