■研修紀行 T
── 中国仏教史跡踏査の旅 ──
天台山・普陀山 雨中の巡拝行(その5)
●普陀山は 東シナ海に浮かぶ小島
普陀山は舟山群島 (しゅうざんぐんとう) に属する周囲20キロメートル、人口
5,000人の小島。普陀山は観音の聖地。「普陀」の語源は「potaraka」
で、「補怛洛迦(ほだらか) 」「補陀洛(ほだらく) 」「普陀落 (ふだらく) 」等と
音写したことからこの地名が生まれたのです。唐訳『華厳経』に「此の
南方に於いて山あり、補怛洛迦と名づく。彼に菩薩あり、観自在と名づ
く」とあります。もとはインドの南海岸にある海鳥山のことで、観音の
住所とされていました。この経説になぞらえて、中国で現実を求めた結
果、この島が普陀山になったのだそうです。
▲普陀山全図
下船したのは島の南端のフェリーターミナル。台風の余波か、桟橋は
もの凄い風。出迎えの陳光輝(ちんこうき) ローカルガイドの声も風に吹き
飛ばされ、聞き取りづらい状況。陳光輝氏は日本語が凄くたんのうで、
仏教知識も豊富な素晴らしいガイド。マイクロバスに乗り込むと早速普
陀山の概要とスケジュールの説明を始めました。
この島に入るには「入山料」60元が必要とのこと。そういえば、桟橋
のところで個々には払わなかったけれどチケットをもらったっけ。ポケ
ットから引っぱり出してみると、なるほど。「普陀山正山門票」「風景
名勝区游覧券」「¥:60元」と書かれています。最初は5元、それから
20元、2年前に40元になり、今年の6月からは60元になりました、と陳
氏。統計によると、昨年は150万人の観光客がこの島を訪れたそうです。
島の人口5,000人の300倍の人が入山したことになります。観音信仰は凄
い! 入山料だけで年間12億円(日本円)余のお金が島に落ちる勘定。
●観音の聖地普陀山五か寺を巡拝
さて、いよいよ普陀山のお寺参り。時計を見るともう11時。陳さんに
よれば、まず普済寺にお参りするとのこと。普済寺は島の南部にある島
内最大の禅寺。1080年の創建だが、建物は明・清時代に再建されたもの。
大殿の正面には「圓通宝殿」の扁額が掲げられていました。観音さまの
ことを円通大師ともいうので、観音さまが安置されている大殿を円通宝
殿と呼ぶのだそうです。壮大な大殿の屋根瓦は、黄色といおうか金色と
いおうか、特徴的に輝いていました。
堂内には金一色の観音像が安置されていました。許しを得て団員一同
でパーリ文の三帰依を唱和し、三誓偈でお勤めをさせていただきました
が、異国の徒の勤行ぶりに現地の人たちからはいぶかしげな視線。普済
寺にはその他天王殿、法堂(はっとう) 、鐘楼、鼓楼などの諸殿があり、大
刹の観を呈していますが、門前町も賑やか。
参道の両脇に延々と続く店。ところ狭しと並べられた商品は多種多様。
線香、ロウソクから法衣、念珠、経典、仏像など、仏教関係品はもちろ
ん、衣類や装身具、雑貨に至るまで品揃えは豊富。さらに、塩干ものと
いわゆる海産物や山の幸、香辛料や穀類も並んでいました。食べ物を見
たためか、お腹がキュー。時計の針は正午過ぎを指していました。
ホテルで昼食をすませ、再びバスが走り出した頃ポツリポツリと雨。
変な予感。まずは島内2番目に大きい法雨寺へ。法雨寺は南北に長い島
の中ほどの位置にあり、ホテルから約40分。1580年開創ですが、現在
の建物はすべて清代以降。境内には古木が多く、いかにも禅寺の雰囲気
を醸し出しています。天王殿の黄色い壁にはひと文字3メートルもあろ
うかと思われる草書で「法雨禅寺」と大書されていました。
▲普陀山法雨寺の説明をする陳光輝氏
円通殿(観音殿)に入り、本尊観音菩薩の尊前で一同勤行。その奥に
は大雄宝殿があり、殿内には声明の調べが響きわたっていました。時々
鉦や木魚の音も交じって、リズミカルで賑やかに。僧・尼僧100名あま
りが読経し、施主とおぼしき俗の方も十数名同席していました。陳ガイ
ド氏によれば、これは「水陸会(すいりくえ) 」といわれる水陸供養法要と
のこと。水中の動物や陸上の動物の命を奪っている人間が彼らに追善供
養をし、見返りに商売繁盛や家内安全のご利益ををいただこうと祈願す
る仏事だそうです。
また、この法会には優婆塞(うばそく) 、優婆夷(うばい) も参加してい
るとのこと。親鸞聖人の『教行信証(きょうぎょうしんしょう) 』や覚如上人の
『改邪鈔 (がいじゃしょう) 』に出てくる「優婆塞」「優婆夷」の言葉に、こ
こで出会うとは思いもよらぬことでした。殿内上手に僧と優婆塞(清信
士)、下手に尼僧と優婆夷(清信女)が座ってお勤めをしていました。
こうした水陸会は最近多くなり、寺院は多忙だそうです。衆僧100人で1
週間ほどかけて勤めるのだそうですが、お布施は12万元、日本円で163
万円余。一般の中国人のほぼ10年分の収入に当たる金額で、とてつもな
い大金。したがって、施主は香港・台湾の人か、改革・開放経済の波に
乗った成金≠ニか。ただ、こういった傾向は普陀山のみならず、中国
仏教寺院全般に見られるようです。何か、親鸞聖人が29歳、山を下りら
れる前の比叡山の祈祷仏教を思わせる状況のようです。
法雨寺に別れを告げる頃、法雨?≠ェ強くなってきました。出口参
道の露店でビニール合羽を買う人も。目前に開けた海には波頭が白く立
ち、雨に煙っていました。ここは「千歩沙」と呼ばれる遠浅の海水浴場。
浜辺の駐車場からバスに乗り慧済寺へ。10分ほど走るとロープウエイの
駅に到着。島内第3の慧済寺は標高287メートルの仏頂山山頂にありま
す。以前は1,114段の階段を歩いて登るか、バスで行くかどちらかだった
そうですが、最近は「普陀山索道」ができたので4〜5分で頂上へ到達で
きます。
ロープウエイの頂上駅から慧済寺へ行くには、逆に階段を下り深い樹
林の中を曲がりくねった細い参道をたどります。竜道≠ネのです。途
中道端の大岩に「入三摩地」の文字が見えます。有名な書家・董其昌
(とうきしょう) が書いたものとか。さらに右に左にと曲がって降りてゆくと
慧済寺の山門に到着。
ガイドの陳さんによれば、慧済禅寺は明の時代の創建で島内第3番の寺
だが、昔から普陀山に来てここに参らなければ普陀山に参ったことにな
らない、といわれてきたとのこと。堂宇は天王殿と大雄宝殿。それから
1980年に新しく建てられた観音殿。ここの大雄宝殿でも水陸会が営まれ
ているようで、読経の声と鉦の音が境内に響いていました。下りもロー
プウエイで楽々下山。だんだん風雨が強くなってきて心配。
普陀山巡拝の最後は、島の南東端にある不肯去観音院(ふこうきょかんのん
いん) と紫竹林(しちくりん) 。バスで40〜50分かかったかと思いますが、真
新しい駐車場に到着。猛烈な風と雨。荒天のせいか日没が近いせいか、
鉛色の茫々たる東シナ海の荒波が迫る岬に不肯去観音院は建っていまし
た。狭い山門を入るとこぢんまりした丹塗りの観音堂。正面には「円通
大士」の扁額。島内で最も古いお寺。
916年、日本の僧・慧鍔(えがく) 大師が、観音像を五台山から日本へ運
ぼうとしたが、海面に蓮の花が現れ舟の行く手をさえぎったため、舟は
潮音洞(ちょうおんどう) の下に停泊。慧鍔は観音さまが中国に残りたがって
いるのだと考え、観音さまをこの地に残していった。それを見て普陀山
の住人がこの仏さまを祀って堂を建てたのが始まりと伝えられています。
去ることを肯かない観音の寺というネーミングはここからきているので
しょう。
▲潮音洞の 「禁止捨身燃指」 の碑
不肯去観音院のすぐ横に潮音洞があります。波涛がうち寄せるたびに
洞内に海水の奔流がせり上がってきます。そのときの響きは雷鳴のよう。
深さ20余丈といわれていますので、50〜60メートルはありましょうか。
この波しぶきの中に観音さまが示現するとか。昔はここに身を投げて極
楽浄土に生まれようとしたり、自ら指を焼いて観音さまの示現を願った
りした人がいたという。すぐ近くには高さ2メートル余の石碑が建ってい
ました。曰く「禁止捨身燃指」。
観音院から少し戻る感じのところに紫竹禅林がありました。1580年、
湖北省の大智和尚の創建になる禅寺で、周囲に紫竹が多かったためこの
名がつけられたとのこと。円通宝殿は二重屋根の豪壮な建造物。殿内で
は法要が営まれていました。衆僧の声明と太鼓、印磬(いんきん) 、鉦、木
魚の音が見事に調和して流れるように響いていました。時は午後5時を
過ぎていましたから夕べの勤行だったのでしょうか。
【To be continued. Written by S,HONDA】
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