■研修紀行 Y

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アジア文化交流センター05夏の研修──

 中国・雲南

  シャングリラ《中(ちゅうでん)》を訪ねて D
 

●目を引く少数民族のコスチューム

昼食はすぐ近くのレストランということで、レストランへ向けて歩を進めると、向こうから民族衣装を着けた女性がこちらへ歩いてきます。今までに見たことのないコスチューム。今回の旅の資料としてエージェントからいただいた、雲南省観光局発行のパンフレットの「少数民族の衣装」欄にも載っていないタイプ。

文字で説明するのは難しいところですが、あえて記すならば以下のようになるかと…。先ずは頭部。一辺が40〜50p(肩幅より広い)、野球のホーム・ベース状の板に、昔よく見かけた、ひらひらの縁取りのあるビロードのテーブルクロスを掛けたような帽子?を超アミダに被る。その帽子の背面のビロード中央には「家紋」のようなもの。刺繍かな? 

次は上着。赤・黄・黒・青・緑などの段だら模様の長袖シャツ(セーター?)。その上に、多彩な縞の縁取りのある前身頃を深く打ち合わせたベストを着用。下部は、これまた原色の幅広横縞派手やかに、フレアたっぷりのロングスカート。実にユニークな装いでした。あの帽子はどのようにして頭に留めてあるのでしょうか、風が吹いたら煽られて大変じゃなかろうか、と余計な心配をしていたら、「食事はこちらですよー」とガイド嬢の声。

ゆっくり昼食をいただいて、午後2時バスに乗車。「新しい景色の名前はテンセンバシ(・・・・・・)。今からテンセンバシへ行きます。テンセンバシの意味は、自然なハシです。」とガイド氏のインフォメーション。走ること2時間余、バスは観光地テンセンバシに到着。観光案内板には「天生橋」の文字。何のことはない、「テンセンバシ」とは「天生橋」のことでした。

狭い階段を、数えることを忘れましたが200段ほどでしたでしょうか、降りると川の畔に出ました。濁った流れの上流に目をやると、川は自然のトンネルをくぐって流れ出ていました。山の向こうはどうなっているか分かりませんが、山腹を貫通して川が流れていることは間違いありません。言い換えれば、山が天然の橋を形成しているということ。天然に生成された橋。なるほど「天生橋」。

川に付随して水泳場や保養施設・娯楽施設らしきものが設置されていましたが、どう見ても一級の観光地とは言い難いところ。トイレを訪ねたら久方ぶりに中国式に出遇いました。壁・床は真っ白な200角タイル張りで至極清潔。20年前に比べれば長足の進歩。

でも、各ブースの仕切は幅1m×高さ1mほどのパーテーションがあるのみで、依然中国流。もちろんドアは無く、仕切の上は天井までオープン。お仕事をしながらお隣と顔を合わせてお話しもできるという方式。

床には繭型の穴が空いているだけで便器というものはない。したがって、壁に向かってするのか入り口を向いてするのか、よう分かりません。構造的にはボトン式ですが、下にはトレンチがあって定期的に水が流れる自動水洗式になっており、以前の“盛り上がり式”に比べれば改善のあと顕著といえましょう。くさい話はこれでおしまい。

●松賛林寺はプチ・ポタラ

8月25日木曜日。相変わらずの曇り空。きょうは松賛林寺の参拝から。ホテルからバスで十数分のところに松賛林寺はありました。甍に法輪をいただく山門をくぐると正面に松賛林寺の伽藍が展開していました。チベットのポタラ宮のように山の斜面に貼り付くように建てられた諸殿伽藍を背景にして集合写真をパチリ。

百数十段の階段をコツコツと上ります。高地ではユックリズムが大切。速く上ると大量の酸素が必要。酸欠を防ぐには10段上っては休み、また10段上っては休みがよろしいようで…。

松賛林寺は1679年ダライ・ラマ5世によって創建された、雲南省最大のラマ教寺院。またの名を帰化寺とも、あるいは小ポタラ宮とも。チベット・ラサのポタラ宮に比べれば10分の1ほどの規模でしょうが、それでも700名の修行僧が暮らしているという。清代の創建当初は2,600名の僧がいたとか。        

諸殿の外壁は、上部を赤く塗り下部は白色の漆喰壁。バランスのとれたツートーン・カラーが印象的。もし青空が背景にあったら、この配色一層映えるのになあと思うことしきり。一方、本堂の入り口には黒地に白色で独特のロゴをあしらった巨大なタペストリー。これまた強烈なアクセントになっています。

そのタベストリー中央から堂内へ。ガイド氏によればこのお堂は昨年完成した新しい本堂とのこと。虹彩の順応速度がのろいせいか、堂内は真っ暗な感じ。バター油の燈明が弱い光と強烈な匂いを放っています。1988年に訪れたラサのポタラ宮の記憶が甦ってきました。

《次号へ続く/2005.12.2記》


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