●骨董屋の娘・光子とハインリッヒ伯爵の出会い
クーデンホーフ・光子がこの家に移り住んだのは1908年。堀口進著『クーデンホーフ・光子の生涯』によれば、光子と7人の子供たちはこの建物の3階のフロアに住んでいたとのこと。この辺り一帯はヒーツィング地区と呼ばれる高級住宅地。ウイーンの市民が一度は住みたいというあこがれの住宅地。地下鉄4号線のヒーツィング駅からも近いところ。
ここに移り住む前、光子はどこに住んでいたかといえば、それはチェコのポペチョヴィッツェにあるロンスベルグ城。その前はといえば、日本の東京。
クーデンホーフ・光子こと青山光子(みつ)は、1874(明治7)年7月7日骨董屋・青山喜八の三女として東京で生を享けました。明治維新後間もないころ。以後、商家の娘として育てられ、18歳になった1892(明治25)年ハインリッヒ・クーデンホーフ伯爵との出会いがありました。
ハインリッヒ・クーデンホーフは1859年ウイーン生まれ。光子より15歳年上の33歳。大学で法学を学び博士号を取り、外交官に。アテネ、リオ・デ・ジャネイロ、コンスタンチノープル、ブエノスアイレスを経て東京に赴任。職名はオーストリア・ハンガリー二重帝国駐日公使。
1854(安政元年)、日米親和条約により下田と函館の港が米国船に開港。その2年後伊豆下田の玉泉寺に最初の外国公館である米国領事館が開設されました。以後、英国、フランス、オランダ、ロシア等々世界各国の領事館、公使館が続々開設。
そうした日本における外国公館の黎明期に活躍した外国人の中に、かの有名なフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトの次男ハインリッヒ・シーボルトがいました。彼は通訳官として活躍。1893年からはクーデンホーフの書記官兼通訳官を勤めたといわれています。また、彼は日本の骨董品にも興味を持ち、長期滞在のうちに、このころにはかなりの“目利き”の“骨董通”になっていたに違いないと思われます。
外国人にとって極東の“未開の国”日本の古美術品は、大変珍しく魅力的のものであったのでしょう。時には外国公館の「異人」を骨董商の喜八に引き合わせていたとしても何の不思議もありますまい。ハインリッヒ・クーデンホーフもその例に漏れなかったのかも。とすると、「落馬事件」がなくとも、ハインリッヒと光子が出会い、知り合うことは容易だったと察しても余りあるといえましょうか。はたまた、一説には光子は外国公館の小間使いをしていたとも。
●落馬が取り持つ縁~かいナ♪
ところでその「落馬事件」とは何なのか、と疑問もおありかと…。この話、真実性を疑うムキもありますが、一つのエピソードとしてご披露いたしましょう。
ハインリッヒが日本へ上陸したのは1892(明治25)年2月29日。それから幾日経った日のことか分かりませんが、光子との出会いについて、光子の次男リヒヤルトが著し、鹿島守之助が翻訳した『美の国』には「落馬事件」のことが次のように記されています。
「ある寒い冬の日に、彼は、いつものとおり、青山骨董店へ出かけた時、氷の上で馬が滑り、ハインリッヒは投げ出された。この事故を光子が偶然目撃していたのである。彼女は、ハインリッヒを助けるため、家から走り出た。医者を呼んだ。光子のした世話は、外国人で淋しい独身生活を送っていた32歳の外交官ハインリッヒを深く感動させたのである。」「…その後、間もなくして、光子は喜八の承認を得て、オーストリア公使館に移って行った。…」
それ以前にも両者は会っていたに違いありませんが、この“事故”が両者の距離を急速に縮めた一つの要因であったことは間違いないようです。実にきれいでロマンチックなエピソードです。そして結婚と進むのですが、結婚式に関する確実な史料がないようです。
二人はいつ結婚式を挙げたのか。一説には1892(明治25)年3月16日挙式、一説には1892(明治25)年12月16日入籍。前者は東京都公文書館にある史料に基づいて木村毅氏がその著書『クーデンホーフ・光子伝』の中に引用されています。ただ、ハインリッヒの来日が同じ年の2月29日なので、来日16日後に結婚式という勘定になり不自然。
一方後者の12月16日説は、ドイツ貴族名鑑に記載されているもので、シュミット・村木眞寿美氏によれば、長男ヨハネスの誕生(1893年9月16日)の9ヵ月前に会わせたのではなかろうかと、その著書『ミツコと七人の子供たち』の中に記しておられます。また、光子自身もこの日付を法的結婚の日と彼女の『手記』の中に書いているとのこと。
挙式・入籍の日付のことはさておいて、結婚式の写真は立派なものが残されています。「築地の大聖堂で式を挙げました」と彼女は書き残しているようですが、式の様子の写真はなく、唯一残っているのは写真館で撮影した二人の写真。竜騎兵姿の夫とドレスを着た光子。当時の日本女性がドレスを着たりフランス製の靴を履いたりすることは極稀。着物に慣れた身体をコルセットで締め付け、足が痛くなるような靴をはいて教会の祭壇に進んだ彼女の気持ちはいかばかりか…。《次号へ続く/2006.11.2 本田眞哉・記》