●十字架の墓前で仏式の勤行
刻銘の詮索が長引きまして恐縮。いよいよ墓参のお勤めです。先ずはローソクに火をともして「供灯(くとう)」したいところですが、折から猛烈な風。点灯してもすぐ消えてしまいます。ふと墓石の脇を見ると、そこに金色の枠に磨きガラスのはまった立派なランタンがあるじゃありませんか。ローソクを入れてみると焔が全く揺らぐことなく静かに光を放っています。しかも厚いガラスのカット面の屈折率の関係か1本のローソクが3本に見え、豪華そのもの。
日本から持参した落雁の華束(けそく)をお供えし、香炉に香炭を入れ焼香の準備OK。やはり持参した抹茶茶碗に水と抹茶を入れて、私の家内が「供茶(くちゃ)」の儀。続いて「供花(くか)」の儀。お花のご芳志をいただいた太田知子さんと加藤副会長夫人の加藤美代子さんが墓前にお花をお供えしました。
準備完了していよいよ勤行(ごんぎょう)。僧籍のある団員、生田智海、大河内知見、加藤祐伸の三師と私が、間衣(かんえ)に輪袈裟(わげさ)を着けて墓正面に威儀を正して勤行開始。導師(どうし)は私が勤め、差定(さじょう=式次第)は「正信偈(しょうしんげ)・同朋奉讃式(どうほうほうさんしき)」。勤行中に団員全員が焼香。十字架の墓碑の前で仏式による法要儀式を執り行ったのです。現地の人々の目にはさぞかし奇異に映ったことでしょう。しかし、光子は元々仏教徒。目くじらたてることはありますまい。勤行終わって墓前で全員揃って記念撮影。かくして今回の旅の主目的の一つである光子の墓参りは無事成就。
光子とその子どもたちなど、クーデンホーフ・カレルギー一族の眠るヒーツィングのフリードホーフ(共同墓地)をあとに、専用バスはウイーン中心部に向けて走ります。街中のレストランGOESSERBRAEUで昼食をすませて、モーツアルト記念館へ。ご存じ、ウイーンは楽聖ゆかりの地。有名音楽家の館、墓碑、スポットの宝庫。ベートーベンはじめ、モーツアルト、シューベルト、ヨハン・シュトラウス、リスト、ハイドン、マーラー等々の楽聖の足跡がキラ星のごとくあります。そうしたなか、まずはモーツアルトのフィガロ・ハウスへ。
●フィガロ・ハウスはリニューアル
フィガロ・ハウスはサン・シュテファン大聖堂の東側至近距離にあります。石畳の狭い道に面した五階建てのビルの一階にその入り口がありました。ン? こんな建物だったかな? 20年前に訪れた時の記憶を辿って思い起こしてみましたが定かではありません。以前に比べて建物全体が非常に明るくなった感じ。そうそう、先刻ガイド氏がバスの中で、今年1月にリニューアル・オープンしたとか言っていましたっけ。
今年はモーツアルト生誕250年に当たるので修復したのでしょう。帰国後、1980年に訪れた時のアルバムを引っ張り出して検証してみましたが、その差は歴然。当時の窓枠はダークブラウンか黒といった色調。外壁もうす茶色。目の当たりにするフィガロ・ハウスは、窓枠も外壁も同じトーンで白っぽく明るくきれいになっていました。
正面入口左側の外壁に掲げられた標示板も全く変わっていました。「Mozarthaus」はドイツ語で変わりありませんが、その後にウイーンを表す「Vienna」の英語表記が加わっていました。開館時間などの表記も、1980年代はドイツ語のみ。新しい標示にはドイツ語と英語の表記。この変化は、多分モーツアルト生誕250年を機に、多く訪れる外国人客を意識してのことでしょう。
このモーツアルト記念館が別名フィガロ・ハウスと呼ばれるのは、モーツアルトの4大オペラの一つ「フィガロの結婚」がここで作曲されたため。館内には「フィガロの結婚」の楽譜やモーツアルトが愛用した楽器が展示されていました。因みに、4大オペラとは、「コシ・ファン・トゥッテ」「魔笛」「ドン・ジョバンニ」「フィガロの結婚」のこと。また、ウイーンでただ一つ残されたモーツアルトの記念館でもあります。モーツアルトは1784年から87年まで3年間ここに住んだとのこと。このころはモーツアルトにとっては、生涯でもっとも幸せな時代だったといわれています。記念館は内装もすっかりきれいに改装され、トイレも立派。
フィガロ・ハウスからサン・シュテファン大聖堂へは徒歩で。午前中は快晴とまではいえませんでしたが気温20℃、まあまあの天候でした。が、ここに来て猛烈な風。あるいは天候のせいよりも地形のせいかな? 大尖塔、大聖堂を避けて吹く“ビル風”のせいかも。外での説明もそこそこに入堂。《次号へ続く/2006.11.2 本田眞哉・記》