■研修紀行 Ⅶ

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アジア文化交流センター06夏の研修──

  ヨーロッパに“アジア”を訪ねる旅

 クーデンホーフ光子ゆかりの地を巡って ⑧



●ハイリゲンシュタットは「遺書の家」

さて、きょう8月23日の日程は、9時にホテルを出発してウィーンの北西部に位置するウィーンの森を訪れたのち、ベートーヴェン・ハウスを見学して昼食。そのあとチェコのプラハへ向けて300㎞走ることになっています。

まずはウィーンの森のハイリゲンシュタットへ。昨夜夕食を摂った地区ですが、車窓の風景は夜と昼では全く別の所に見えます。バスは、東京都の三分の二の広さがあるという森の中へさらに深く進み、カーレンベルグの丘へ。坂道を上り詰めたところは平地の広場になっていて、その端っこにある展望台らしきところへ。洋の東西を問わず、人間は高いところからものを見るのがお好きなようで…。逆光のせいか、あるいはガスっていたせいか、眼下の眺めはダーク・グレイで感動するには今一つの感。

バスはカーレンベルグをあとにしてベートーヴェン・ハウスへ向かいます。“引っ越し魔”といわれたベートーヴェン、数々の旧居があったといわれますが、ウィーンには三つのベートーヴェン・ハウスが現存。その中の一つがハイリゲンシュタットにある「遺書の家」。ベートーヴェンが耳の病気を苦にして遺書を認めた家。近くに交響曲「田園」第2楽章「小川のほとりの情景」作曲のモチーフになったといわれる「ベートーヴェンの散歩道」があります。20年前に訪れた時は雪の中。小川に沿った散歩道を歩きましたが、20㎝ほどの積雪のなか、ズボッ、ズボッと音を立てて歩いたことを思い出しました。もちろん小川のせせらぎなど聞く由もなく…。今回、そこは飛ばして遺書の家へ。

付近一帯は道幅が狭くバスで玄関横付けというわけには参らず、さほど遠くはありませんが、石畳の道をハウスまで歩いていきます。街角を曲がってハウス正面へ。エッ? フィガロ・ハウスと同様に、このベートーヴェン・ハウスも化粧直しされた様子。ただ、入口の扉は20年前のアーカイブスとぴたり一致。茶色の木製の扉。特徴は扉の表面に、中心の円から放射状に彫刻されている直線。古い例えで恐縮ですが、戦争中の軍艦旗、今ならば朝日新聞社旗のようなデザイン。その赤い放射状の線を細くした形といったらよろしいか…。

入口を入ると中庭があり、向こう側の建物には見覚えのある外階段。その手すりには「BEETHOVEN’WOHNUNG(ベートーヴェンの住居)」の表示看板。予約時間の関係ですぐには入館できず、奥の庭へ。こぢんまりした庭には、ムクゲの花が咲き乱れ、リンゴの木には果実がたわわに実っていました。

館内には、ベートーヴェンが使った楽器や自筆の楽譜などが展示されています。中でも有名なのはベートーヴェンのデス・マスクと遺書。1802年11月ベートーヴェン31歳の時、聴覚を失って失望して兄弟などに宛てて書いた遺書。デス・マスクも自筆の遺書も、見た後の印象はあまりよいものではありません。デス・マスクは何かグロテスクで、遺書の筆跡はかなり乱れているようでした。


●ウィーンの名物料理を食べてチェコへ

ベートーヴェンの時代には、このあたりは市壁のかなり外側に位置する田園地帯。今では閑静な住宅地となっています。ウィーン19区、Probus-gasse(プロブスガッセ)6番地のベートーヴェン・ハウスを後にして、再び専用バスへ。バスは緑豊かな住宅地を離れて、全く対照的に木一本も無く花一輪も見られない、ビルと車ばかりの市の中心部のレストランに到着。

レストランの名は「SCHRAMMELBEISL」。メニューはクリア・スープとウィンナー・シュニッツェル。ウィーンではこのウィンナー・シュニッツェルを食べなければ…、というのがグルメ通のサゼッション。たたいて薄く伸ばした仔牛の肉を黄金色に揚げたカツレツ。でかーい! 皿からはみ出しています。でも食べてみると脂っこくなく、さくさくと歯ごたえよく、実に美味。あっという間に平らげました。

ウィーンの名物料理で満腹した団員一同、バスが走り出すと上の目蓋と下の目蓋が仲良しに…。これからチェコのプラハまで約300㎞、5時間の道行き。市街地を抜け、ドナウ川を渡ってアウト・バーンに乗ってバスはひた走ります。因みに、オーストリアのアウト・バーンの速度制限は時速130㎞。国道の最高速度は100㎞/h、市街地は50㎞/h。ドイツのアウト・バーンは速度制限なし。腕に自信があれば時速250㎞でぶっ飛ばしてもよろしい。しかし、ドイツ人がオーストリアで250㎞/hで走ったら速度違反。

さて、私たちのバスはアウト・バーンを出て国道を走り、車窓にのどかな田園風景が展開する中いよいよ国境に到着。まずはオーストリア出国。ガイド氏によれば係官がバスに乗り込んできてパスポート・コントロールをすることもあれば、バスのドライバーの申告だけでOKの場合もあるとか。今回は?と固唾を飲むなか、ほんの数分で「終わりました」。午後2時ちょうど。2004年にチェコがEUに加盟するまでは大変厳しいチェックがあったとか。続いてチェコ入国の審査。これもいとも簡単にパス。日本人は信頼されているという面もあるようです。


●欧州回帰するチェコ

国境を越えると車窓の風景もがらりと変わった印象。道路も路面の整備が行きとどかず、何となく薄汚れた感じ。EUには加盟したものの、まだ通貨の統合にまでは至っていない、ということで両替の「小屋」へ。レートは忘れましたが、チェコの通貨は「チェコ・コルナ(CZK)」。コンビニのような店の駐車場に停めてあったバスへ帰ってくると、女性団員が何かガヤガヤ。聞けば、無料のはずの店のトイレで料金を請求されたとか。私が利用した時にはそんなとトラブルはなかったのに。どうも、トイレだけ使って何も買わずにゆく日本人が気に入らなかった模様。

駐車場に立つ塔の電光表示「23℃」を見ながら出発。バスは国道らしき道を、一路プラハを目ざして進行。見慣れない古いタイプの車がマフラーから白煙を上げながらバスの前をノロノロ。そこでガイド氏、東西ドイツ時代の車についてのエピソードを語ってくれました。当時西ドイツを代表する車がメルセデス・ベンツ。東ドイツを代表する車はトラバンタ。メルセデスは、言わずもがなの名車。トラバンタはボディーが段ボールでできている車。したがって衝突するとボディーがパカッと割れてしまうとか。危険千万。また排気ガスもたれ放題。さらには、トラバンタにはガソリンメーターがなくて、止まった時にボンネットを開けて、オイルチェックするときと同じようにゲージを見ながらガソリンの残量をチェックするという、ウソのような話も。

国境から3時間50分、専用バスはコリンシア・タワーズ・ホテルに到着。なるほどタワー、24階建ての素晴らしいホテル。市街地の中心部kongresovaにあり、高速道路へのアクセスも至極便利。経営主体はどこの資本かつまびらかではありませんが、ヨーロッパや近東にホテルを展開しているグループ・カンパニーのようです。チェコは、1989年の「ビロード革命」により共産主義政権が崩壊して以来、議会制民主主義とともに「欧州回帰」の名のもと、市場経済・西欧化が急速に進行中。


《次号へ続く/2006.11.2 本田眞哉・記》



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