■研修紀行 Ⅶ

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アジア文化交流センター06夏の研修──

  ヨーロッパに“アジア”を訪ねる旅

 クーデンホーフ光子ゆかりの地を巡って ⑨



●プラハから150㎞、ポペチョヴィツェへ

きょうは旅の第4日目、824日木曜日。今回の夏の研修のメイン、クーデンホーフ・光子のかつての居城であるロンスベルグ城見学の日。子どものころの遠足の日のように、まだ見ぬお城への期待に胸ふくらませて興奮気味。空模様は上々。心配なのは道路状況。シュミット・村木眞寿美さんと交わしたアポイントメントの時間に現地に到着できるか否かがただ一つの心配事。

8時半、専用バスはホテルを出発。ロンスベルグ城までは150㎞、2時間半~3時間の道行き。添乗員の三和田君の情報によれば、昨日の名古屋の最高気温は37℃とのこと。車内の団員からは「おー」のどよめき。こちらの気温は20℃~22℃で快適なのに。

チェコのガイドは横井さん。チェコではスリ、かっぱらい、置き引きに要注意とのこと。現金やパスポートは肌身離さず厳重に管理すること、とご忠言。日本人はお金を他人に見せたがる癖があるので被害に遭いやすい、とも。人前で財布を出したり、お金を出し入れしたりするところを見られないように、と厳重注意がありました。

バスは高速道路に入り、ロンスベルグ城のあるポペチョヴィッツェを目指してひた走ります。高速道路といっても、ドイツやオーストリアのアウト・バーンのように整備が行き届いたものではありません。スピード・メーターは90/hを指しているのに揺れのひどいこと。あるいはバスも古くサスペンションが劣化しているせいでしょうか。

その高速道路もプラハから約100㎞、ピルゼンあたりまで。高速道路網の整備はいまいちのようです。ピルゼンといえばビールが有名。「ピルスナー・ビール」。ピルゼンからさらに走ること約40㎞、幹線道路を外れて田舎道へ。丘陵地の田園の中に赤い屋根に白い壁の家々が点在しのどかな風景。10数分走ったでしょうか、ポペチョヴィッツェの町に到着。

時計を見ると、午前1110分。シュミット・村木眞寿美さんとEメールで約束していた1130分より若干早く到着することができました。ヤレヤレ。きょうの昼食の場所は「フベルトスホテル」。事前にインターネットで調べておいたそのホテルの姿が車窓に現れました。ホテルの入り口に立つシュミット・村木眞寿美さんの姿も見えます。彼女からのEメールによれば、このホテルもかつてはクーデンホーフ家の持ち物だったとか。

●講師はシュミット・村木眞寿美さん

 ホテル1階に設けられたダイニング・ルームはそれほど広くなく、30人余が席に着いたらきゅうくつ。シュミット・村木眞寿美さんを団員の皆さんに紹介して早速食事。食事をしながら雑談。和やかな雰囲気。しかし、時間が空過するのがもったいないということで、デザートになったところでシュミット・村木眞寿美さんにレクチャを始めていただきました。

青山光子の生い立ちから始まって、クーデンホーフ・カレルギー伯爵との出会い、そしてボヘミアの地で時代の流れに翻弄されながら立派に生き抜いた光子の数奇な運命を熱っぽく話してくださいました。1942年生まれたとは思えない若さの彼女。容姿も行動力も。現在ドイツのミュンヘン在住で、きょうもポペチョヴィッツェまで250㎞余、自らハンドルを握ってアウト・バーンをぶっ飛ばしてこられたとのこと。

早稲田大学大学院修了後、ストックホルム大学に留学した才媛。その後ドイツ人の医師と結ばれて子どもさんにも恵まれ、主婦業の傍らレポーター、通訳、翻訳の仕事をしながら執筆活動を続けていらっしゃいます。数々の著作出版物については前に紹介させていただいたとおりですが、とにかくそのバイタリティには脱帽です。生きざまは、何かクーデンホーフ・光子の生涯と重ね合わせたよう。

レクチャが終わったところでプレゼントの交換。かねてシュミット・村木眞寿美さんからEメールでリクエストを戴いていた物を私の方からプレゼント。それは何かといえば、飛行機の中で手に入れた日本の新聞と週刊誌。ゴミになって焼かれるシロモノ。その廃品が活用されれば、CO2が削減され、地球温暖化防止にいささかなりとも貢献できれば幸甚の至り。団員一同からはドッと笑い声。

それから、もう一つリクエストを戴いていた物もプレゼント。それは「タマノイのすしの子」。これは私の家内がショッピング・センターで探して調達した物で、他の食料品ともども家内の手から進呈。喜んでいただければ幸いです。シュミット・村木眞寿美さんは1982年にドイツ国籍を取得していらっしゃいますが、やはり根っこは日本人。この二つのリクエストが、そのことを如実に物語っているのではないでしょうか。一方、シュミット・村木眞寿美さんからはドイツ産の塩をいただきました。

《次号へ続く/2006.11.2 本田眞哉・記》




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