■研修紀行 Ⅶ

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アジア文化交流センター06夏の研修──

  ヨーロッパに“アジア”を訪ねる旅

 クーデンホーフ光子ゆかりの地を巡って ⑩



●ロンスベルグ城でジハ町長と交歓

さて、いよいよ待ちに待ったロンスベルグ城へ“登城”の時が来ました。といっても、昼食を摂ったフベルトスホテルから、なだらかな上り坂を歩いて23分のところ。城内に入るとすぐ左側にインフォメーション・センター。このセンターは日本人から寄せられた寄付金によって整備されたとのこと。センター前でご当地のジハ町長と交歓行事。まずは日本からのおみやげをプレゼント。おみやげは「のれん」と「扇子」。大型の白扇には、私が揮毫した大きな「和」の漢字と「Peace」の英字。

ジハ町長からは、『MEMOIRAN VON GRAFIN MITSUKO COUDENHOVE-KALERGI (光子・クーデンホーフ・カレルギー伯爵夫人の回想録)』と題した本と『MITSUKO Kazuko Yoshiyuki(光子 吉行和子)』というDVDビデオを頂戴しました。前者はチェコ語とドイツ語で書かれた180ページ余の出版物。後者は、女優の吉行和子さんが2005年にロンスベルグ城のあるポペチョヴィッツェで、一人芝居「MITSUKO」を上演した時の映像記録。

おみやげ交換に続いて、ジハ町長が歓迎のあいさつ。あいさつの中で「遠路はるばるようこそお越しくださいました。ミツコが住んだところがどんなところかご覧いただけると思います。ミツコがここに住んでくれて本当に助かっています。日本からもたくさんのお客様がいらっしゃいますし…。日本の皆さんからはたくさんの寄付をいただきまして感謝しております。特に本田さんのお友達の成田さんには多大な貢献をしていただいております」とコメント。

ジハ町長のチェコ語を通訳がドイツ語に訳してシュミット・村木眞寿美さんへ。そして、シュミット・村木眞寿美さんがそのドイツ語を日本語に訳して私たちへ伝えるという作業が必要なため、余り多くの会話はできませんでした。

折角の機会なのでジハ町長も交えて記念写真を、ということで階段に全員集合! 雲一つ無い快晴の青空に映えるお城の赤い屋根をバックに「ハイ、チーズ!」。階段を上り一段高い城内に入ると、天守といいましょうか、中心になる館の外壁は、修理途中の部分と崩れ落ちた部分がまだら。サウス・ウイング(南翼)の館の外壁がきれいに修復されているのとは対照的。

●ハプスブルグ王族の重臣クーデンホーフ家

そもそもこのお城の淵源を訪ねますと、15世紀に遡るようです。1459年ドブロホルストランスペルク家の人が、後期ゴシックスタイルのお城を買い取り増改築。1502年にはこの城主に都市権(市場を開いたりする権利)が与えられ、この地域が農村から町となり繁栄。その後17世紀にはブンシュビッツという人の手に渡り、今まで城塞(ブルグ)といわれていたものから、城(シュロス)といわれる形に整備されました。彼は敬虔なカトリック信者であったので、聖ネポモック(ヤン・ネポムッキー)の像を有名な彫刻家に造らせたと。聖ネポモックといえば、プラハのカレル橋に建つ星の王冠を戴く像が有名。

そして19世紀半ば、ミツコの夫ハインリッヒの父がこのロンスベルグ城を買い取ったのです。ところで、クーデンホーフ・カレルギー家のご先祖様はといえば、オランダ南部ブラバントの旧家で、16世紀からあのハプスブルグ王家の伯爵としてその名を馳せていました。一方、ハプスブルグ家といえば、高校時代に学んだ世界史の授業の中でもたびたび聞いたお名前。その発祥の地はスイス東北部のライン川上流域。そこには、ハビヒツブルグ(鷹の城)古城が現存。この「ハビヒツブルグ」が訛って「ハプスブルグ」になったとか。時代は950年頃。

以後、政略結婚により大規模に領土を拡大。特に1273年、ハプスブルグ伯ルドルフⅠ世(121891)が神聖ローマ帝国の君主・ドイツ王に選出されてから急速に図版を拡大。中世から20世紀初頭までの間に、オーストリア大公国、神聖ローマ帝国、スペイン王国、ナポリ王国、トスカーナ大公国、ベーメン(ボヘミア)王国、ハンガリー王国、オーストリア帝国(のちにオーストリア・ハンガリー二重帝国)などの大公・国王・皇帝を代々輩出。ヨーロッパ王家の中でも屈指の名門。

話をロンスベルグ城に戻しましょう。ハインリッヒ伯爵に嫁いだミツコが、このお城で7人の子育てにいそしみ、幸せな日暮らしをしたことは間違いありません。ところが、結婚後14年、ロンスベルグに移り住んでわずか10年後、夫ハインリッヒが心臓病で急逝。享年47歳。

その後、バルカン戦争や第一次世界大戦、第二次世界大戦をはじめ度重なる戦争、加えてハプスブルグ王朝の没落もあり、クーデンホーフ家もロンスベルグ城も時代の波に翻弄されました。1945年、ドイツが敗戦し、ロンスベルグ城はチェコ国家が没収。48年には国境警備隊がここに駐留し、城はかなり壊されたとか。そのあと空き家になって70年代まで放置され、荒れ放題。1989年の「ビロード革命」により共産政権が崩壊し自由化されるなか、お城修復の機運が生まれてきたということです。

《次号へ続く/2007.3.21 本田眞哉・記》




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